crow_henmi はてなハイク市民 (銀 109日)

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 下で書いたのは、あくまで現実世界における「わたし」と可能世界の関連性についてのメモだが、美少女ゲーム的な空間ではそれは自ずと別の性質を持ってくる。美少女ゲーム自体がその構造から可能世界に近しいものであるがゆえに、それをあえて現実世界における「わたし」との関係性とリンクさせる必要はない。そこにおいて「わたし」の自己対象となるキャラクターは複数の幽霊へと分裂し、可能世界の間を飛び回り可能性と戯れ得る存在となる。むしろ、現実世界における「わたし」の、絶対的なまでの「固有性」から逸脱した物語空間を描くことが、フィクションの重要な命題足りうるとの極論もありうる。可能世界しかない場所に、なぜ現実世界の固有性をわざわざ持ち込まなければならないのか。それは単なる惰性ではないのか。そういう問いすら投げかけうる。ただ、この問いには「ゲーム自体はフィクショナルな存在で、そこにおける自己対象としてのキャラクターは幽霊でも、その遊び手たる「わたし」は現実の存在である」という観点が欠けている。「わたし」はキャラクターたちを/ゲームを「わたし」という個別性においてしか認知も把握もできない。「わたし」はそうした可能世界や幽霊といったものを戯れとして消費できても、「わたし」自身の体験として受容できない。しかし「わたし」は幽霊に、可能世界に憧れ、それと戯れることを望む。それは想像力の範疇に収まるとは云え、擬似的に「今ここにあるわたし」以外の可能性を指し示し肯定してくれるものだからだ。
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 松尾論文を読んで。

 固有性は固有だからこそ生じるのだ、みたいなことを云われても、それトートロジーだし……と思わないではない。ただ、そこに理由がなくともそうあってしまう、ということを呑み込まざるを得ないのは事実だ。そこで、固有性を持つ「わたし」の意思決定の問題というものが生じる。過去の「わたし」の意思決定の上に今の「わたし」があり、今の「わたし」の意思決定の上に未来の「わたし」がいる。「わたし」と云う存在は、そうした固有性から生じた意思決定の連なりによってくくられている。云えば、常に「わたし」は「そうであったかもしれない他のわたし」という「幽霊」を殺すことでわたしとして定義され、また未来のわたしを定義していく現象であるといえる。過去・現在・未来において「わたし」の同一性が保たれるとすれば、まさにそうした固有性と意思決定が時間的連なりを持っているからだ――固有性から人は逃れられない以上、過去・現在・未来のそれぞれのわたしの「性質」がどれほど変わっていても、その固有性からは逃れられない。性質の変化すらも「わたし」が選んだことであるのだ。ここに「わたし」の固有性とは性質ではなくまさに固有性そのものに立脚するというトートロジーが完結する。

 さて、このように「わたし」の生が固有性に立脚し縛られているものだとしても、いや、だからこそ、固有性に排除された可能性、今と違う「わたし」の性質――「幽霊」というものを閑却するわけにはいかない。「わたし」が「わたし」として、この瞬間にも無数の幽霊を殺して成り立っていることに対する倫理的な向き合いというものが必要になってくる。なぜなら「わたし」の現在の性質は、それらすべてを否定することによって成立する存在であり、その「否定」なくして「わたし」の現在の性質はありえないからだ。なぜ「わたし」は他のすべての可能性を否定してここにあるのか、なぜ「わたし」は未来にあるであろう他のすべての可能性を否定して未来の「わたし」の性質を決定づけるのかということに対して、最終的に決断し、責任を引き受けなければならない。この決断と責任が、外部からの非主体的決定に任されてしまうこと、または過去に決定された「わたし」の性質によって今の「わたし」が束縛されるがゆえに、結果的に非主体的になってしまうことはままある、というか、大体においてそうだ。それでもなお、決断とそれに伴う責任は、最終的に「わたし」に――今の「わたし」が引き受け、そして未来かくあるであろう「わたし」に受け渡されるのだ。このような状況を没倫理的に全肯定してしまうことは、幽霊たちの存在を、幽霊としてすら否定し、閑却してしまう傲慢な仕草であり、「ありえたかもしれない「わたし」」を想定することで生ずる政治的な全ての問いかけ――人間の安全保障や諸権利、そしてよりよき未来の否定となる。「危機に陥るかもしれない「わたし」」「権利(これ自体が可能性を指し示すアイコンだが)を蹂躙されるかもしれない「わたし」」「貧困で不満足な未来しか得られない「わたし」」に対する想像力を持たず、それを閑却して、いったいどのような政治が可能か。中世的隷属と悪の横行。それが答えだ。悪とは想像力の凡庸さから生ずる。現実を追認し、未来のより良い可能性を見捨てることで生まれる現象であり、むろん、その責任は最終的に「わたし」に回帰するのだ。

 ここにおいて、想像力は「わたし」のより良い生のための基軸となる。そして、そこで想像される「わたし」の性質の多数性こそが、それらすべてを否定してある、未来の「わたし」のための参照項として機能する。なるほど、確かに可能性はひとつの固有性によって排斥される。しかし、その固有性を選ぶ際において、可能性は常に複数参照されなければならない。可能世界は幻想かもしれないが、その幻想を「わたし」という固有性へとたぐり寄せるために、どうしても存在しなければならないものなのだ。
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今・此処に在ることの価値は、「他でありえた私」といった無数の幽霊たちを、まさに「他」でしかない、「自分ではないもの」として、独立に承認することに基づいている。「生まれ直し」の思想に現れているのは、こうした幽霊たちの存在を、同じ自分として横領的に詐取してはばからない傲岸な仕草にほかならない。

――松尾隆佑「確率・亡霊・唯一者――政治学的想像力のために」2010年、4頁――

メモ。
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夜明けだというのに眠れないので、時間性と可能性は本当に非対称なのかということについてぼんやり考えている。決定論的世界観では可能性は均質な時間性に包含され消失するが、非決定論的にはそうではないとするのが直感的に正しい。しかし過去・現在・未来を貫通する均質な時間性においては、過去・現在・未来が等質に扱われるのではないか。人間の生のどうしようもない前提としてある「現在」を特権化しすぎるのは危険ではないか。しかしわれわれは基本的に「現在」に固有性を持って生きているのだから、そこに依拠しない「生」や時間性などというものはありうるのか、そんなことを考えている。
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返信先しろうと
詳細な返答は後日として、とりあえず、思いついたことだけ書きます。あらゆる可能世界が可能であるがゆえに現実である、みたいな話に持ち込むとややこしくなるので避けますが、グレッグ・イーガンの塵理論についてはご存知でしょうか。もしご存じなければ、参照の価値があるものとして提示しておきます。また、ここから派生する「あらゆる可能世界が可能であるがゆえに現実でありうるのに、なぜわれわれはこのひとつの生しか生きられないのか」という問題に関しても、ちょっと考えてみたいなと思ってます。
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返信先しろうと
 可能世界は仮想的に存在する、ということを、仮想世界で描くのは想像力の後退であると思います。それはわれわれの個別的生の領域では当然とされることですが、仮想世界を閲する読み手としてのわれわれにとっては偽の命題でしかないからです。可能世界に手を伸ばすことがいともたやすくできてしまう、そういう「超越者」として仮想世界を閲するわれわれはあるのだし、その手つきがどれだけ作品の可能性へと干渉できるかについての批判的視座は「うみねこのなく頃に散」で散々語られたことだと思います。そしてそういうメタな存在としての読み手に対してあくまで可能世界の可能性を感じさせるなら、「うみねこのなく頃に散」のように「あえて真実を語らないまま物語を発散させる」という手段がすでに存在します。ぶっちゃけ、これを超える方法論は今のところ思いつきません。
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返信先しろうと
 時間と可能性が非対称的・互換的であるというのは現実世界の話であって、テキスト読解に用いるには直感的ではあるが雑な方法論だと思っています。そしてわれわれが問題にするのはまさにそのテキストの領域ではないでしょうか。
 あと、偶有性とノベルゲーの親和性については東浩紀が何年も前に「動物化するポストモダン2」で語っています。
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市場における特定分野の競争力が下がったからといって賃金切り下げをするのは、比較優位法則的に正しくないし無意味な取り組みである。その結果生じた余剰労働力を、自国の比較優位産業に振り分けるのが、自由主義経済においてすら正しい選択肢になる。
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ところで先進国の無産階級にとって発展途上国の経済発展が望ましいかというと、長期的にはそのとおり。ただ、長期的にはわれわれはみんな死んでいるので、短期~中期的にはどうかを考えなければならない。短期~中期的には労働需要の取り合いになることがままあるが、比較優位をうまく利用すればプラスサムは可能。ただ、比較優位をうまく利用するためには市場インセンティブだけではなく経済協定や国内産業再編などの国家イニシアチブが強く働かねばならないし、しくじるとひどいことになる。
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個別性=立場性と云い替えてもよい。ただ、この場合の立場性というのは割合可変的なものなので、マネジメントの妙が光る部分ではあるかも。
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人間はその個別性に抜きがたく囚われているので、普遍を云々すること自体が極めて困難な事業である、というのはすでに常識ですが、そ
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返信先しろうと
あとついでですが、可能性世界に開けていく物語についての知見が得られるという点において、ボルヘス「八岐の園」はぜひ読んでいただきたく存じます。
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返信先しろうと
「メシア的時間」について論じた時にヴァルター・ベンヤミンをきちんと読んでいなかったので独自解釈になっていますが、しろうとさんが仰られるような「メタ物語」階梯とは違うものを意識していました。東浩紀がCLANNAD論で云ったような「ある可能性と排他的な他の可能性がいずれも重なりあって存在しうる「多重的」な時間性」をイメージしていた、というあたりでしょうか。具体的にはhttp://d.hatena.ne.jp/hazuma/20090317/1237217360で示されているような世界認識のあり方ですね。それをプレイヤーサイドからの「メタ物語」と云ってしまうのは簡単であり近似値でありますが、テクスト内部にすらそのような多重性が織り込まれている、というのがぼくの考えです。「Kanon問題」が実は問題でも何でもなかったかのような、そういうお話です。
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返信先しろうと
ひぐらしについては竜騎士07とその親族・友人がノベルゲーに必要な実装をすべてまかなえる体制であったという特殊な強みがあるので、一概に比べるのもどうかと思いますが、まあこれは作り手の判断の問題なので、こちらから指摘することではなかったですね。申し訳ありません。
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返信先しろうと
ノベルゲーからはプレイも実作も評論も含めて遠ざかった身なので、とりたてて話すべきことはあまりないのですが、ひとつだけ。
ノベルゲーは少しまじめに取り組んだだけでポケットマネーを超える金が必要になってくるシロモノですが、そのあたりは大丈夫なんでしょうか?
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去年の5月に突然自分のblog活動全てが馬鹿馬鹿しくなり、それからは世を拗ねて悪質反動的居直りをしていたのだが、さすがにそれもどうかなと思ったので自己批判し軌道修正を図りたい(迫真)
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「よう魔竜院」「佐藤です。佐藤一郎です」みたいなことの繰り返し……(遠い目
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論壇ごっこも論壇政治ごっこも黒歴史的に自分を悩ます存在なので現在進行中の人間を見るとドン引きする佐藤一郎@AURA状態。
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