crow_henmi はてなハイク市民 (銀 109日)

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sirouto2

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返信先crow_henmi
>時間性と可能性は本当に非対称なのか
 時間と可能性の非対称性、ひいては時間の不可逆性は、自然法則なので受け入れないと仕様がないです。が、その自然に対する、人間の価値付けには幅があることを補足しておきます。たとえば、基本的には過去の罪が問われ、可能世界の罪は問われません。ただし、過去の罪が「時効」で不問になり、可能世界の罪が「未遂」という形で問われるケースもあります。「遠くの過去より、近くの可能世界」という価値観もあるのです。

 また、時間性は固有性、可能性は偶有性に関連してきます。このどちらをどれくらい重視するかは、やはり人間の価値観です。ロールズの「無知のヴェール」は代表的で、要するに自己責任かどうかですが、ほかにもたとえば、著作権の問題、匿名性の問題、住基データベースのようなセキュリティの問題など、多分野に関係してきます。技術の進展によって、可能性や偶有性の領域が広がり、こうした問題を浮上させています。より大きい話で言えば、ポストモダンや「大きな物語」の凋落というのも、偶有性の領域の広がりだと捉えられます。

 『存在論的、郵便的』に関する批判には、見るべきものがありません。理論は単純化するものだとか、コミュニケーションにはノイズがあるとか、言っても仕様がない。単数的な超越論性か、複数的な経験性か、という二項対立に、「複数的な超越論性」という問題を立てたところに、この本の意義があります。これは直接関係ないたとえですが、単純な秩序か、複雑な現象か、という二項対立をカオス理論が崩したようなものです。

 ただ、『動ポモ』では、理論装置がデータベース=複数的な超越性に変わって、理論的に退行しました。そういうたんなる確率的な組み合わせの問題ではなく、差異の生成システムとしてノベルゲームを捉えています。だから私は、『動ポモ』『動ポモ2』の路線ではなく、『存在論的、郵便的』を理論的バックボーンにするのです。
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>あらゆる可能世界が可能であるがゆえに現実である、みたいな話
本作はパラレルワールドを展開するので、そういう可能世界の実在論に近い立場に立ちます。すると、http://togetter.com/li/112536 での「個別性が偶有性に後退」する問題が出てきます。死や生が一回性のものでなくなり、存在の耐えがたい軽さが出てきます。が、キャラの存在より世界の謎が主軸になる「死にゲー」タイプの作品もよくあります。『ひぐらし』『うみねこ』もそのように捉えています。そこで開き直って、謎解きゲームの世界に徹しようと思っています。

 本作はエンターテイメントなので、ややこしいテクニカルな問題は、御都合主義的設定で回避します。たとえば、「可能世界間で属性が違っても、指紋のようなもので同一人物と特定できる」設定があるので、貫世界同定の問題は生じません。つまり、キャラが交換可能だと読者はイヤだろうから、アイデンティティを自明にします。そのように設定でどうにでもなるので、専門的な議論での正しさよりは、読者に何が求められているかが重要になります。なお、「グレッグ・イーガンの塵理論」は聞いてはおりましたが、教えていただいので改めてチェックします。

>あらゆる可能世界が可能であるがゆえに現実でありうるのに~
本作はパラレルワールドの導入によって、選択できる範囲が現実より広くなっています。しかしそれでも、選択して可能性を縮減する仕組みは必須だと考えています。なぜなら、あらゆる可能性が並列されているだけだと、ドラマになりません。ボードゲームでたとえますと、将棋やチェスは繰り返し指せますし、定跡は共有されています。が、解析され尽くしてはいませんし、あらゆる指し手は等価どころか必ず差異があります。コマは個性を持ち、盤のマス目も場所性を持ちます。私は、そういう差異の生成システムとしてノベルゲームを見ています。
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 下で書いたのは、あくまで現実世界における「わたし」と可能世界の関連性についてのメモだが、美少女ゲーム的な空間ではそれは自ずと別の性質を持ってくる。美少女ゲーム自体がその構造から可能世界に近しいものであるがゆえに、それをあえて現実世界における「わたし」との関係性とリンクさせる必要はない。そこにおいて「わたし」の自己対象となるキャラクターは複数の幽霊へと分裂し、可能世界の間を飛び回り可能性と戯れ得る存在となる。むしろ、現実世界における「わたし」の、絶対的なまでの「固有性」から逸脱した物語空間を描くことが、フィクションの重要な命題足りうるとの極論もありうる。可能世界しかない場所に、なぜ現実世界の固有性をわざわざ持ち込まなければならないのか。それは単なる惰性ではないのか。そういう問いすら投げかけうる。ただ、この問いには「ゲーム自体はフィクショナルな存在で、そこにおける自己対象としてのキャラクターは幽霊でも、その遊び手たる「わたし」は現実の存在である」という観点が欠けている。「わたし」はキャラクターたちを/ゲームを「わたし」という個別性においてしか認知も把握もできない。「わたし」はそうした可能世界や幽霊といったものを戯れとして消費できても、「わたし」自身の体験として受容できない。しかし「わたし」は幽霊に、可能世界に憧れ、それと戯れることを望む。それは想像力の範疇に収まるとは云え、擬似的に「今ここにあるわたし」以外の可能性を指し示し肯定してくれるものだからだ。
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 松尾論文を読んで。

 固有性は固有だからこそ生じるのだ、みたいなことを云われても、それトートロジーだし……と思わないではない。ただ、そこに理由がなくともそうあってしまう、ということを呑み込まざるを得ないのは事実だ。そこで、固有性を持つ「わたし」の意思決定の問題というものが生じる。過去の「わたし」の意思決定の上に今の「わたし」があり、今の「わたし」の意思決定の上に未来の「わたし」がいる。「わたし」と云う存在は、そうした固有性から生じた意思決定の連なりによってくくられている。云えば、常に「わたし」は「そうであったかもしれない他のわたし」という「幽霊」を殺すことでわたしとして定義され、また未来のわたしを定義していく現象であるといえる。過去・現在・未来において「わたし」の同一性が保たれるとすれば、まさにそうした固有性と意思決定が時間的連なりを持っているからだ――固有性から人は逃れられない以上、過去・現在・未来のそれぞれのわたしの「性質」がどれほど変わっていても、その固有性からは逃れられない。性質の変化すらも「わたし」が選んだことであるのだ。ここに「わたし」の固有性とは性質ではなくまさに固有性そのものに立脚するというトートロジーが完結する。

 さて、このように「わたし」の生が固有性に立脚し縛られているものだとしても、いや、だからこそ、固有性に排除された可能性、今と違う「わたし」の性質――「幽霊」というものを閑却するわけにはいかない。「わたし」が「わたし」として、この瞬間にも無数の幽霊を殺して成り立っていることに対する倫理的な向き合いというものが必要になってくる。なぜなら「わたし」の現在の性質は、それらすべてを否定することによって成立する存在であり、その「否定」なくして「わたし」の現在の性質はありえないからだ。なぜ「わたし」は他のすべての可能性を否定してここにあるのか、なぜ「わたし」は未来にあるであろう他のすべ... (続きを読む)
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今・此処に在ることの価値は、「他でありえた私」といった無数の幽霊たちを、まさに「他」でしかない、「自分ではないもの」として、独立に承認することに基づいている。「生まれ直し」の思想に現れているのは、こうした幽霊たちの存在を、同じ自分として横領的に詐取してはばからない傲岸な仕草にほかならない。

――松尾隆佑「確率・亡霊・唯一者――政治学的想像力のために」2010年、4頁――

メモ。
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夜明けだというのに眠れないので、時間性と可能性は本当に非対称なのかということについてぼんやり考えている。決定論的世界観では可能性は均質な時間性に包含され消失するが、非決定論的にはそうではないとするのが直感的に正しい。しかし過去・現在・未来を貫通する均質な時間性においては、過去・現在・未来が等質に扱われるのではないか。人間の生のどうしようもない前提としてある「現在」を特権化しすぎるのは危険ではないか。しかしわれわれは基本的に「現在」に固有性を持って生きているのだから、そこに依拠しない「生」や時間性などというものはありうるのか、そんなことを考えている。
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返信先しろうと
詳細な返答は後日として、とりあえず、思いついたことだけ書きます。あらゆる可能世界が可能であるがゆえに現実である、みたいな話に持ち込むとややこしくなるので避けますが、グレッグ・イーガンの塵理論についてはご存知でしょうか。もしご存じなければ、参照の価値があるものとして提示しておきます。また、ここから派生する「あらゆる可能世界が可能であるがゆえに現実でありうるのに、なぜわれわれはこのひとつの生しか生きられないのか」という問題に関しても、ちょっと考えてみたいなと思ってます。
sirouto2

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返信先crow_henmi
>可能世界は仮想的に存在する、ということを、仮想世界で描くのは想像力の後退~
 「物語を発散させる」のは、『うみねこ』というより『エヴァ』によって流行った手法でしょう。超えるかどうかは主観にもよるのでともかく、方法論はそれらの作品以前から、いろいろあると思います。

 前提として『ひぐらし』『うみねこ』はEP8までプレイ済みですが、それらが流行したのは、作品の外部が「バベル」化したからだと捉えています。本編は一本道のループでも、外部では仮想的に際限なく分岐していく。このバベル化は、ノベルゲームのボリュームが際限なくインフレするのとは別のことで、むしろ無限分割の問題として捉えています。有限の長さの線分も無限に分割できるという話は、ボルヘスの『伝奇集』にもありました。

 ただ、ご指摘のとおり、仮想化には、「想像力の後退」という側面があることも否めません。前述のエンターテイメントの要請があるので、本作ではメタフィクション性を消すことはできなくても、なるべく軽減はします。それにはまず、私の分類ですが、作中から現実を参照する上方のメタフィクションと、作中で作中作を参照する下方のメタフィクションに分けます。後者のほうが相対的にリアリティを損ないません。まず、この前者を避けることにします。『うみねこ』も後者です。

 また、 http://togetter.com/li/112536 に対して言えば、可能世界=メタフィクションとは限りません。虚構世界と可能世界は区別できます。前者は実在する可能性を持ちませんが、後者は持ちます。さらに、SF的な平行世界は、それぞれの世界が実在しています。『うみねこ』はさしあたりループものですが、序盤のEPでは、前者=創作説でも、後者=平行世界説でも解釈できました。本作のほうでは、より強く後者の立場を取ります。要するに、メタフィクションというより、パラレルワールドとして描きます。
sirouto2

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返信先crow_henmi
 間が空いてしまって恐縮ですが、難しい問題なのでいろいろ考えていました。

>時間と可能性が非対称的・互換的であるというのは現実世界の話であって~
 テクスト論的な視座は一般ユーザにないので、crow_henmiさんに聞いたかいがありました。そのようなテクスチュアルな側面を持たせたいのです。ただ、本作はエンターテイメント作品なので、一般ユーザの感覚に合わせた分かりやすさを保つ必要があります。

 また、テキスト読解の方法論としても雑とは限らず、たとえばミステリにおいて、過去の実在性は大前提になっています。たとえば、遡及的に過去が生成できると、解が収束しません。ところが、まさにそういうアンチミステリーをやりたくて、分かりやすさやフェアネスと衝突するため、だいぶ悩みました。今ではあるていど筋道が立っていますが。

 時間性と可能性の非対称性は、過去と未来の非対称性に置きかえられます。そして、過去も、過去には、未来の可能性のひとつでした。 http://togetter.com/li/112536 に対する新たな視座として、「昨日の自分から今日の自分へ」の確定した連続性だけでなく、「今日の自分から明日の自分へ」の不確定な連続性にもリアリティを見出せます。時間的連続性か可能世界かという対立に見えて、時間的連続性の先が可能世界に分岐しているわけです。

 偶有性とノベルゲーの親和性のご指摘については、もちろん、『動ポモ』『動ポモ2』もいちおう踏まえていますが、さらに前の『存在論的、郵便的』が理論的なバックボーンになっています。さらに言うと、その一冊だけというより、可能世界論の可能性を可視化したいのです。といっても、エンターテイメントなので、思弁的な話は表面に出てきませんが。
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返信先しろうと
 可能世界は仮想的に存在する、ということを、仮想世界で描くのは想像力の後退であると思います。それはわれわれの個別的生の領域では当然とされることですが、仮想世界を閲する読み手としてのわれわれにとっては偽の命題でしかないからです。可能世界に手を伸ばすことがいともたやすくできてしまう、そういう「超越者」として仮想世界を閲するわれわれはあるのだし、その手つきがどれだけ作品の可能性へと干渉できるかについての批判的視座は「うみねこのなく頃に散」で散々語られたことだと思います。そしてそういうメタな存在としての読み手に対してあくまで可能世界の可能性を感じさせるなら、「うみねこのなく頃に散」のように「あえて真実を語らないまま物語を発散させる」という手段がすでに存在します。ぶっちゃけ、これを超える方法論は今のところ思いつきません。
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返信先しろうと
 時間と可能性が非対称的・互換的であるというのは現実世界の話であって、テキスト読解に用いるには直感的ではあるが雑な方法論だと思っています。そしてわれわれが問題にするのはまさにそのテキストの領域ではないでしょうか。
 あと、偶有性とノベルゲーの親和性については東浩紀が何年も前に「動物化するポストモダン2」で語っています。
crow_henmi

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市場における特定分野の競争力が下がったからといって賃金切り下げをするのは、比較優位法則的に正しくないし無意味な取り組みである。その結果生じた余剰労働力を、自国の比較優位産業に振り分けるのが、自由主義経済においてすら正しい選択肢になる。
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ところで先進国の無産階級にとって発展途上国の経済発展が望ましいかというと、長期的にはそのとおり。ただ、長期的にはわれわれはみんな死んでいるので、短期~中期的にはどうかを考えなければならない。短期~中期的には労働需要の取り合いになることがままあるが、比較優位をうまく利用すればプラスサムは可能。ただ、比較優位をうまく利用するためには市場インセンティブだけではなく経済協定や国内産業再編などの国家イニシアチブが強く働かねばならないし、しくじるとひどいことになる。
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個別性=立場性と云い替えてもよい。ただ、この場合の立場性というのは割合可変的なものなので、マネジメントの妙が光る部分ではあるかも。
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人間はその個別性に抜きがたく囚われているので、普遍を云々すること自体が極めて困難な事業である、というのはすでに常識ですが、そ
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そして、可能世界は仮想的に存在する、というテーゼは、制作ゲームにも適用するつもりです。

「うみねこのなく頃に」が非選択肢式オムニバスノベルであるべきたったひとつの理由 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地 http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20090302/1235990509

上記エントリで言う「「あらゆる解に発散しうる」バベル」のノベルゲームを、私は作ろうとしています。
上記では「無限」だから「無理」、とされていますが、可能性としての無限なら可能だと思います。

たとえば、『ひぐらし』『うみねこ』でいえば、本編では唯一解を指向していたとしても、
外部の掲示板やWikiでは解が発散していくので、それも含めれば仮想的にバベル化してます。

だとすれば、そういう仕組みを内部化すればいいのではないかと。
それに、PBM/PBWというのは、すでにそういう面があると思います。

そういうバベルのノベルゲームの問題点とその解決案を、
問題意識が重なるため、crow_henmiさんにお聞きしたいのです。

もちろん、これだけだと説明不足だと思いますが、
仕様をくわしく説明しようとすると、公開されているここだと書きにくいです。 (続きを読む)
sirouto2

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返信先crow_henmi
そしてこのことが、「Kanon問題」を再燃させます。

選択されず多重に存在する可能世界というのは実在しません。
よって、「Kanon問題」の解決は実現しません。

しかしこれは、ただ否定しているのではありません。
裏を返すと、可能的、虚構的には存在しています。

「Kanon問題」もメタ物語の上でという条件付きで、解決・解消できるでしょう。
そして、「偶有性」といった社会学的な問題系に接続できるかもしれません。

可能世界論の可能性/不可能性 - Togetter http://togetter.com/li/112536

だから、上記の議論について言えば、可能世界(論)そのものは現実(的)ではないが、
人間の共同体は物理的なレベルだけでなく心理的なレベルでも構築・運営されているので、
完全な「出来レース」ではないし、語る意義もある、といった見解を持っています。
sirouto2

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返信先crow_henmi
>「メシア的時間」について(~)「「多重的」な時間性」
なるほど、ご返答いただけて、認識の相違がはっきりしました。

時間の循環性というより可能性の多重性、
もしくはその両方に重点があるのですね。

どうしても「時間」という言葉に引きずられて、
「カイロス時間」のイメージだけで解釈していました。

ただ、縦と横の区別と違い、時間と可能性は非対称的、非互換的です。

「その論理であれば、過去の私と現在の私も同一存在でない」(http://togetter.com/li/112536
とありますが、過去の私と現在の私は同一性があると考えます。

なぜなら、可能性は実在しませんが、過去は実在するからです。
だから、可能世界の罪は問われず、過去の罪は問われるのです。
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