歓びの野は死の色す

"歓びの野は死の色す" でひとこと

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florentine

歓びの野は死の色す

返信先florentine(磯崎愛)
『野の花集』



 とはいえオレの苦しみは自業自得という名の因果応報であり、ことさらに嘆いてみせるのはオレがそれだけ弱い人間だという証に他ならない。または「語り手」としての本能で、自身の恥部を晒してみせているだけにすぎない。廉恥心なぞというものはオレにはない。ましてオレは大貴族として育てられた人間でもなかった。いっときは捨て子としてエリゼ派の修道院で養われた。そういうオレには貴族としての矜持も政治家としての知恵も徳も何もなかった。
 ところが、だ。
 賢人宰相と呼ばれたあの男には、何もかもがあった。富も権力も、何もかも。
そしてまた、その妹、かつて王弟に嫁いだ美しく才長けたエリーズ姫にも欠けるものはなにもなかった。

 だがオレは、知らなかった。
 ほんとうに知らなかったのだ。

 あのふたりが兄と妹でなく、真実恋人同士であったと。
 それだけでなく、あのふたりの秘密の恋がエリーズ姫の夫、つまり王家の人間を死に至らしめたことも。

 『歓びの野は死の色す』を上梓し意気揚々とモーリア王国に詣でたオレを、彼らはどんな気持ちで迎えたのか、オレにはわからない。記述はなかった。はじめからオレに託すつもりで破棄したわけでもあるまい。恐らくは、おそらくは、と断るが、彼はそれを記すことすらできなかったのではないか。

 ヴジョー伯爵家の近親相姦の物語を、彼らふたりがどんな気持ちで読んだのか、オレは想像することがむずかしい。

 彼ら二人は、王弟殿下を殺すつもりはなかった。
 いや、もっと正確に記すべきだろう。
 彼らは自身の身を守っただけにすぎない。
 何故なら、王弟殿下の愛人がエリーズ姫殺害を企てていたから。

 その不届きな愛人の命を絶つはずだった銃は、王弟殿下を襲った。

 彼らの国王は、じぶんの叔父の死を不審におもっていたようだ。後ろ盾のない少年王は賢人宰相と呼ばれる男を頼りながらもどうしようもなく嫉妬してい... (続きを読む)
florentine

歓びの野は死の色す

返信先florentine(磯崎愛)
『野の花集』



 モーリア王国で賢人宰相と呼ばれた男の残した覚書は、今ではオレのまとめた『随想集』としてだけでなく、全編詳細な注解つきで出版されている。オレはあれらを捨てるに忍びなかった。オレにくれたものならば、それをどうしようがオレの勝手だろうと居直った。ただし、オレが死んで百年たつまでは手を付けてくれるなと遺言した。
 オレは『歓びの野は死の色す』を記した当時、まだ十五歳だった。その年で葬祭長になった。オレは《夜》をこの国にもたらした。死者どもを呼び寄せて語らせたのだ。
 召喚師、霊媒師たるオレの名声は今後も衰えることはないだろう。詩人、小説家としてのそれよりは、また宗教家、国家元首としての評価よりよほど安泰だ。
 まあ、それは致し方ない。
 なにしろ〈死者の軍団〉などこの世界のどこの国も持ってはいないのだから。
 オレが死者の軍団の統率者たる『騎士』を追い求めたはなしはもう何度もしたはずだ。
 それはこの国の治世のためだけではない。
 オレは、『騎士』にどうしても話したいことがあったのだ。
 その前に。
 そう、その前に。
 オレのはなしは脱線しすぎるようだ。許してほしい。
 賢人宰相と呼ばれた男が騎士に似ていることもすでに伝えた。今でこそ、ヴジョー伯爵家といえば丈高く白金の髪に淡い緑色の瞳の美丈夫と相場が決まっているが、それはもとはといえば女公爵エリス姫の側近となった知将アンリの血統だ。この血が、この国に残った。
 それとは別に、『騎士』ルネの従弟の血統はモーリア王国へと流れたのだ。それが、賢人宰相の家へと伝わっている。
 めんどうくさいはなしをしよう。いや、少しも面倒ではない。これは、オレの記した『歓びの野は死の色す』のなかにあっては非常に著名な、もっとも読まれ、ひとの口にのぼる小話なのだ。
 知将アンリと呼ばれた男は帝都にのぼり、無事に伯爵の地位を授与された。寛大なことに、または皮肉をこ... (続きを読む)
florentine

歓びの野は死の色す

返信先florentine(磯崎愛)
『野の花集』



 返答は、ない、か……。
 このオレ様が年寄りじみた嘆き節で懇願してやったのに、いまどきの人間どもは不敬だな。
 まあ、いいさ。
 無視するなら無視すればいい。
 オレだって、生きてたころは年寄りの繰り言をやりすごした。死人に口なし。たとえ耳許でうるさくがなられようとも、だ。あいつらにはなんにも出来やしない。それと同じだと迫られたら同意する。生きてる人間は忙しいからな。生きているというだけで重労働だとは死者であるオレも知っている。暇な身分じゃないと返されたらオレだって邪魔して悪いくらいのことは口にする用意はあるさ。
 だがな、無視できない「声」もある。あるのだよ、このオレ様にだって応えずにはいられない「声」というものが。
 それに、オレの声を聴くあなたは、いったいこのはなしが何処へ向かっているのか気になるはずだ。
 《夜》まで、まだ少しばかり時間はあるようだな。寄り道をしていいかい? もうすでに寄り道ばかりじゃないかってあなたは言うかもしれないね。でも、オレは近いうちにこの世界から文字通り消える運命の人間だ。それに免じて許してくれないかな。
 どうもありがとう。あなたは優しいひとだね。
 あなたのようなひとと知り合えて、オレは幸せだよ。お世辞じゃなくて、ね。
オレは生きてたころに書き手であったから、死者となった今も、じぶんの言葉に耳を傾けてくれるひと対して感謝の念を持ちつづけている。それは施政者としてであろうと宗教家としての立場であろうと同じなようだが、やはり実はそれぞれに異なるのだ。
 まあ、その説明はいらないだろう。オレは今、エリゼ公国の《夜》について記した書物『歓びの野は死の色す』の作者として語っているのだから。
 さて、どうするかな。
 皇帝アウレリウスは別として、オレが消える前に決着をつけたい相手が幾人かいないではない。決着をつける、とはいかにも剣呑だがそのとおりだ。
 ヴ... (続きを読む)
florentine

歓びの野は死の色す

返信先florentine(磯崎愛)
『野の花集』



 恋人よ、
 白い花 摘みにいこう
 緑なす丘へ 

 恋人よ、
 赤い花 摘みにいこう
 幸せな明日
                  エリゼ公国北東部シャロンヌ村俗謡より
                  アレクサンドル・デリーゼ『野の花集』所収 

 オレは〈死者の軍団〉の力を借りてモーリア王国を撃退後、文字通りこの国をはしからはしまで歩き回った。表向きの理由は史上初の男性葬祭長として各神殿を詣でるためであったが、主目的はエリゼ公国に伝わる俗謡と民話の蒐集だ。逆ではない。オレは真剣にエリゼ公国のそれらについていま記しておくべきだと感じたのだ。
 かつて、モーリア王国学士院の辞書編纂に名を連ねてしまったがゆえに。
 オレがこの先ほんとうに詩人として名を残せるのだとしたら、おそらくこのささやかにしてひたむきな仕事のためだと思う。なんどもいうが、オレは自惚れ屋ではない。じぶんの詩の出来具合について見誤るほど愚かではないつもりだ。悪くない詩は幾つかある。だが、それだけだ。
 しかし、ひとに何ができようか。
 忘却という名の時の重みに抗い、それに押し潰されぬために幾つかの詩を残した。オレはそれで自身の詩人としての生涯をよしとしている。他国はいざ知らず、この国の者たちは遠い未来にもオレの詩を諳んじてくれることもあろう。オレがこの国初の男性葬祭長であることと、そしてまた大文字の《夜》を記した『歓びの野は死の色す』の作者であるために。
 そしてまた、『野の花集』という小さな書物のために、それを集めたオレの名を忘れないでいてくれることと思うのだ。今のところ、その想像は外れていない。この国に生まれ育ったものたちは、言葉を習いはじめるときに『野の花集』を紐解いてくれている。
 じつを言えば、あの全国行脚には周囲からの猛反対もあったのだ。だがオレはあえてそれを遂行した。結果的に、この国はよくまとま... (続きを読む)
florentine

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返信先florentine(磯崎愛)
外伝・空が青いと君がいった日(再掲すみません)
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「わたしが思うに、それは君がやることじゃなくて《死の女神》の神殿の仕事じゃないかな?」
「それはそうかもしれないですが、女の人のためってだけじゃなくて、太陽神殿の教義や対応自体に問題があるのは事実です。けっきょく世の中って弱いひとのところに負担がいきやすいじゃないですか。そういう全てをどうにかできるとは思ってませんが、考えて、少しでも動かせるなら、どうにかしたいんですよね」
 彼のいうとおり、戦乱や疫病でわりない被害にあうのは子供、老人、そして女性だ。また、家や家族を失った女たちが新しい町で男の袖をひくのはどの国でも見られる。
 わたしは歪んでいる。
 平和が一番と願うくせに、こころの何処かで何かを期待していた。望むのが戦だなどといえば、主君のルネさまに叱られるであろうことは理解していた。それでも、自身の力を試したいと希う卑しさを黙殺はできない。それは、側室腹に生まれたゆえの抑圧か、はたまた誰かをこころゆくまで屈服させたいという醜い欲望のためか、わからない。わたしにわかるのは、わたしの抱える鬱屈は誰が見ても美しいものではないという、それだけのことだ。
 故に、わたしはそれを隠蔽する。
 そうして押し込められた熱の煩わしさは、刹那的に欲望を吐き出すことで癒されるものでもない。ただし、利点はいくつかある。少なくとも、頭も身体もかるくなる。
 しかし、それでは何の問題も解決されていない。
 むろん、わたしは悪い客ではない。彼女たちを殴りもしないし花代以上の無理も要求しない。支払いをけちることもない。さりとてそれがわたしという人間がまっとうであるという言い訳にはならない。
 女の繰言を聞いてやり、自分の意見を押し付けず、世の不条理な構造自体を問う、問うだけでなく動かそうというジャンのほうが、人間としても男としてもまともだろう。 
「ちかごろじゃ、俺ってまっ... (続きを読む)
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返信先florentine(磯崎愛)
外伝・空が青いと君がいった日(再掲すみません)



 わたしがとぼけると、ジャンは尋ねたことをあからさまに後悔したように口を曲げた。その顔をみて、自分が少し嫌になった。自己嫌悪を払拭すべく、わたしはすぐさまその名を告げた。
「マリー・ゾイゼ。この国の宰相閣下の息女にして、アラン・ゾイゼ神殿騎士団長の妻だ。もっとも、あまり公式行事にも出席しないから話したこともないけどね。彼女もわたしの顔をそれと知っているかどうかわからない。それで?」
「それでって、なんですか?」
「気になったから、わたしに尋ねたんだよね? 他に聞きたいことがあれば聞けばいい。あのご婦人の個人的なことは知らないが、この国の貴族社会、またはヴジョー伯爵家郎党が知っているようなことなら答えられる」
「聞けばって、別に、俺はその……」
 後ろに行くにつれて、彼の声が小さくなった。
 マリー・ゾイゼの顔に火傷の跡さえなければ、彼女の名がひとの口にのぼらない日はなかっただろう。ある種、凶暴なほどの美貌をたたえたエリス姫と違い、誰もが安心して見つめることの許された淑やかな女性だった。彼本人が意識しているかどうかは別にしても、ジャンのような若者が憧れるに相応しい、年上の美女……。
「立派な方だと、尊敬してるだけですから」
 わたしの感慨を打ち消すように、ジャンがいった。彼はこちらの勘繰りを察知して、すぐさま訂正を促したわけだ。だが、かえってそれが余計に興を引くものだと、わかっているだろうか? 
 それでもわたしは話題を変え、以前から気になっていたことを尋ねていた。
「太陽神殿の教義では、堕胎は許されてなかったよね?」
「そうですが、はじめに断っておくけど、さっき連れて行った女性は堕胎しにいったわけじゃない。恋人から殴られるって相談されたんですよ。まあ恋人っていってもお察しのとおり婚姻関係にない『旦那』、なんですが。別居をすすめたら住むところがなくなっ... (続きを読む)
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返信先florentine(磯崎愛)
外伝・空が青いと君がいった日(再掲すみません)



 ジャンがいったい何故、そんなところに女を連れて行くのか判じかねた。彼に限ってそんな事はないと思う一方、なにか揉め事になるのではないかとも考えた。彼がちょくせつ関係していないにしても、穏健なはなしには成り得ない。いざとなれば仲裁に入らなければならないかもしれず、わたしは足音をしのばせて人通りの少ない道を歩いた。
 はたして、待ち合わせでもしてあったのか、門のすぐそばには白いヴェールをかぶったほっそりとした貴婦人が立っていた。わたしは彼女に見覚えがあった。背中をむけたままのジャンはこちらに気がつかないでいたが、そのご婦人が視線を寄越したため、彼は振り返ろうとした。
 おそらく、わたしは酷く慌てた顔をしたのだろう。
 その女性はすぐさまジャンの名前を呼んだ。彼は弾かれたように背をのばして向き直った。つづいて驢馬から女性をおろし、その手をとってヴェールの婦人にわたし、それから深く頭をさげた。会話らしいものは何もなく、それでも滞りなく一連の手続きが終了したことがわかった。
 わたしは古神殿の壁に背をついて、ジャンが通りすぎるのを待った。
 ジャンはとぼとぼと歩いてきてわたしの前に立ち、挨拶も何もなく問うた。
「つけてたんですか?」
「ああ、すまない。悪かったと思う」
「あなたに素直に謝られると、やりづらいじゃないですか」
 わたしは苦笑のままで相手の仏頂面にきいてみた。
「遊びの付けを払わされたという様子でもないが?」
「違いますよ」
「言えないか?」
「何を」
「関係を」
「太陽神殿の信者です。ただし、うちの神殿じゃあ話せないことも、出来ないこともある。それ以上は、あなたも質問しないでしょう?」
「まあね。わたしには関係ない」
 ジャンはふうっと息を吐いて顔をあげ、わたしの冷淡さを詰るふうもなく漏らした。
「関係ないって便利なことばですよね」
「そうだね。... (続きを読む)
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歓びの野は死の色す

返信先florentine(磯崎愛)
外伝・空が青いと君がいった日(再掲すみません)



 世は並べて事もなし。
 娼婦と寝た朝に思うのは、そんなことだ。
 わたしに背をむけて軽い鼾をかく女は、モーリア王国から来たという。かなりの売れっ妓らしく顔も身体も悪くなかったが、いささか喋りすぎたし化粧が濃い。
 神殿に戻るまえに湯をつかわなければ、この匂いでエミールに嫌われる。
 いちど、脂粉塗れで朝帰りしたのを見咎められて以来、わたしは身を整えて太陽神殿に戻るよう気をつけていた。あの女の子みたいに可愛らしい顔が嫌悪感にゆがむのを目にすると、少々倒錯的な興奮をおぼえないでもないが、本格的に軽蔑されるのは避けたいものだ。
 わたしが作男として席を置く太陽神殿の面々は、女遊びにうつつを抜かすことは決してない。神官にしてわたしの主君のルネさまは、娼婦買いなどしたこともない清廉潔白な騎士であるし、ニコラは長年連れ添った恋女房に死なれて以来、そちら方面はめっきりご無沙汰らしい。15歳と若いエミールはきっと童貞で、作男のジャンは……わからない。
 彼とは、女の話などしない。
 いや、あの狭く小さな神殿のなかでわたしたちは共通の話題をもたないように工夫してきた。隔たりのわけは階級差にもあったろうが、本質的には我の強いもの同士であるからだろう。だからこそ、意見が表立ってぶつからぬよう互いを牽制し、自身を抑止し、うまく立ち回ってきたはずだ――つい、先日までは。
 ジャンが遂に、上級試験を受けるといいだした。
 ルネさまは穏やかに微笑まれ、その肩を抱いて祝福した。ニコラは、不器用なやつだなあと笑った。彼には、ジャンが遠回りしているように感じたのだろう。神官見習いのエミールは先を越されると慌てるかと思ったのに、笑顔で手を叩いていた。子供だとばかり思っていたが、落ち着いていた。
 なるほど、ひとはきちんと成長するものだ。わたし以外の人間は。 ... (続きを読む)
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返信先florentine(磯崎愛)
外伝・風に舞う蝶(再掲すみません)



 ここまで話してきて、アンリさんは顎に手をあてて考えこむような顔をして、問題の石を指差しました。
「その石って、これのことだよね?」
「そうです」
「元に戻ってる……?」
 僕は、深くうなずいてから口にしました。
「ジャンは始めから、次の見回りのときには元の場所にあるはずだから心配するなと言ってくれていたのです」
「ああ、そうなんだ。じゃあその通りになってよかったね」
 そう言ったアンリさんは僕の顔を見て首をかしげました。
「あれ? エミールは、あんまり嬉しそうじゃないね」
「僕も安心して喜びたいのですが、ジャンが、その次にはたぶんまた移動されてると思うからって、あのしれっとした調子で言うんですよ!」
「あ~、それ、きっと当たってるねえ」
 アンリさんには思い当たる節でもあるのか、いったん顎をひいて瞼を伏せ、それから肩を揺らして笑いはじめました。
「やっぱり、当たってますか?」
「学がなくとも農民たちだって賢くしたたかさ。この世の中、誰しも馬鹿じゃ生きていけないよね。根負けしたほうが損するって話だよね」
「きちんと交わした契約を破るのが、強かですまされることですか?」
「ジャンは何て?」
「え」
「ジャンは農民出だろう? 彼は、何ていってたのかな?」
 先ほどと同じ質問に、考えこみました。いえ、こたえはわかっていたのですが、僕はそれを言いたくなかったのです。そして、言いたくなかったのは、彼のことを認めたくなかった気持ちと一緒です。
「ジャンは……、農民たちは貧しいんだから、そのくらいのズルは認めて許してやらなきゃって。こっちが尊敬できる仕事をしたら、彼らのほうからすすんで手伝いに来るし邪魔もしなくなるって……」
「至極立派な正論だねえ」
 アンリさんの口許に笑みが浮かんでいます。正直にいうと、僕だってそう思いまし... (続きを読む)
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返信先florentine(磯崎愛)
外伝・風に舞う蝶(再掲すみません)



 一月ほど前の、見回りのときのことでした。
 西側の一角の石が動かされていて、それを農民たちに抗議したとき、ジャンは彼らのはなしを聞いただけですましてしまいました。僕が口を挟もうとすると、お前は引っ込んでろといって後ろに押しやるのです。
 ジャンは、同じことの繰り返しや行き当たりばったりで要領を得ず、まったく整合性のない農民たちの言い訳を、一言も漏らさず耳に入れていたようです。僕は嘘をつく人間が大嫌いなので実は途中で苛々してしまったのですが、ジャンがその場を動かないものですから、黙って彼の後ろに立っていました。
 はじめは僕たちが年若く物慣れないと見て、盛んにまくしたてていた彼らですが、はなしを聞き遂げようとするジャンの態度に、次第に落ちつかなげに瞳を泳がせ、唇を舐めたり、いつ洗ったのかもわからない垢じみた服の裾をつかんだりしだしました。五人一斉に話していた彼らがついには黙り込んでしまったのは、自分たちが事を偽っていると認めたのでしょう。僕は、ジャンがそこでいつものように舌鋒鋭く反論するものと思ったのです。
 ところが、彼は勢いの弱まった農民たち一人一人に労いの言葉をかけ、僕の腕をつかんでそこを後にしたのです。
 吃驚して声も出ないとはこのことでした。
 いつもは一番年長のニコラさんにだって食ってかかるのに、あんな農民たちの戯言に一言も返さず背中を向けるなんて、まったくもって彼らしくありません。
 帰り道、僕は太陽神殿としてはあんな嘘を認められないと口にしました。するとジャンは、お前、ちっとも優しくないなあと言ったのです。
 誓っていいますが、僕はただ、農民たちの不正な行いに腹を立てただけです。彼らの窮乏については同情しています。
 そういう自分の気持ちを説明しようとしたところ、ジャンは今日のことは神官様には言うんじゃないぞ、今のあの方はそれどころじゃないんだか... (続きを読む)
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歓びの野は死の色す

返信先florentine(磯崎愛)
外伝・風に舞う蝶(再掲すみません)



 あの蝶を、初めて見たのは「見回り」の日のことでした。
 見回りとは、太陽神殿の葡萄畑が他の所領地とちゃんと区別されているかどうか確認する作業です。そのころの僕は、エリゼ公国の都にたったひとつだけの太陽神殿に「神官見習い」として勤めていました。
 都の東側の突端にあるとても小さな太陽神殿には、僕たちの主にして神官職であられるルネ・ド・ヴジョー伯爵、神官見習いのニコラさん、作男のアンリさん、作男なのにやたら教義や式典に詳しいジャン、そして僕エミールがいたのです。
 「見回り」が始まったのは、その神殿で寝起きするようになって3年ほどたった年のことです。その年から新たに増えた葡萄畑は、公都の門の外、東の丘の斜面にありました。増えたといいましても、正確にいえば、神官さまが買い上げて神殿に寄進したものです。葡萄酒販売で巨額の富を築いておいでの神官さまは、その知識や技術をご自分の司る神殿で試みようとお考えになったとしても不思議ではありません。
 しかしながら、我らが太陽神殿には神官さまも含めて五人しか人手がなく、農作業のほとんどを近隣の農家に依頼することになりました。
 ところが、その農民たちや元の土地所有者である貴族たちが、印しとして置いた石を動かして僕たちの葡萄畑を掠め取ろうとするのです。あんな大きな石をご苦労なことだと思うのですが、あまりに頻繁に動かされてはたまりません。また、畑が騙し取られていたりしたときには断固としてそれを守らなければならず、この「見回り」という仕事は時として武力行使も辞さない覚悟が必要になるのでした。
 もっとも、この見回りにヴジョー伯爵であらせられる神官様が来られれば、たいていの農民や貴族たちは引き下がりました。なにしろこのエリゼ公国では公爵様に次ぐご身分の方ですし、公明正大であることはみなが知っていたからです。
 そうい... (続きを読む)
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返信先florentine(磯崎愛)
外伝・この胸の炎



 さしもの俺もその言い振りにはとさかにきて反抗した。
「俺だって、神官様がこの国のお姫様と結婚できたらいいと思ってますよ」
「そう。できたらいい、それがおまえの本心だ。おまえの心配はこの神殿がどうなるかで、またはこの国がどうなるかだ」
「なっ、だ、だってそりゃ」
「勘違いするな。おれはそれを責めてるんじゃないさ。上つ方の立場は庶民と違うことくらい、おれもよく知っている。だが、それはあの方の人生を自分たちの平和のために犠牲にしてくれと願っていることだと、一度でも考えたことがあるか?」
「……貴族なら、あたりまえのことじゃないですか」
 俺の不貞腐れたこたえに、ニコラがうなずいた。
「そうだな」
「ニコラ」
「なあジャン、おまえ、本当になんでここにいる」
「なっ、そんなに俺が邪魔ですかっ!?」
「そういうことではないよ」
 ニコラの声はそのままで、血がかああっと耳の後ろにのぼるのを感じた。
「おまえが苛々してるのは、この国の先の状況が読めないからじゃなくて、伯爵様の恋の行方が気になるからでもなくて、おまえ自身の問題だと思うぞ」
「……誰だって、そうじゃないんですか? そんな、広い視野で、目的もって、高い志で、そんなふうに生きてる人間ばっかじゃないでしょう」
「それはそうだ。だがな、おまえは、おまえ自身がどうなのかは、おまえしか、決められないんだよ。おまえがどうなりたいかは、おまえにしかわからない。
 おれが決めてやれればいいが、そういうわけにはいかないんだ。わかるか?」
 それは、わからなくはなかった。
 俺がイライラしているのは、自分の将来がわからないからだ。ここで一生暮らしてもいけるが、俺はたぶん、それでは満足できないのだろう。
 俺は、あの村に、小さな神殿を建てたいと思っていたはずだ。
 帝都に送り出してくれた領主様は、お若いころたった一週間、帝都に滞在されたときのことが忘れら... (続きを読む)
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歓びの野は死の色す

返信先florentine(磯崎愛)
(再掲すみません)
外伝・この胸の炎



 このところ毎日、我らが太陽神殿の主は街の西向こうにある古神殿にお出かけだ。
 そこには、この国のお姫様がいらっしゃる。10年前、そのお姫様と神官様は相思相愛だったらしい。
 仲間みんなが大盛り上がりなんでいちおう話を合わせちゃいるが、ほんというと、俺が気になるのはこの神殿がどうなるかってことだ。
 神官様はルネ・ド・ヴジョー伯爵様といって、この大陸でも有数の名門貴族のお生まれだ。そこに、隣のモーリア王国から王女を嫁にもらわないかっていう話がきた。
 なにせ、仰々しいナリをした宰相閣下がお出ましになってのお指図だ。
 ここにいる奴らはみんな揃いもそろって世間知らずっつうか、我らが神官様の立場ってものを考えちゃあいない。
 エリゼ公国の未来がかかってるのに。
 俺だって、本音をいえば神官様には幸福になってもらいたい。
 だが、そうはうまくいかないのが世の中だってことくらい、俺はちゃあんとわかってる。
 好きあってるからって、結婚できる貴族なんているわきゃない。
 言ったが最後、エミールあたりに目ン玉ひんむいて反論されっからいわないけどな。
 子爵家のお坊ちゃんは、世の中のイイとこしか見てねえんだよ。
 そんなわけで俺がひとりむしゃくしゃして菜園の草をむしってるところへ、この神殿でいちばん年長のニコラが足を引きずりながらやってきた。
「どうした、ジャン。さいきん苛々しているようだが、気になることがあるんだろう」
 単刀直入に決め付けるところがニコラらしい。歳は40と、おれの倍近くになる。この男は、かつては神官様の父上の従者であったらしい。つまり、元は貴族っつうことだ。そんな高い身分じゃないといってたが、帯剣が許されるってのは立派なもんだ。足が悪いのは野盗と戦った名誉の負傷というやつで、身体つきは頑丈だ。長衣から突き出た腕なんか... (続きを読む)
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返信先florentine(磯崎愛)
外伝・神官さまの恋



 ちかごろの神官さまはまったく元気がありません。
 僕の知るかぎり、太陽神殿の神官であらせられるルネ・ド・ヴジョー伯爵は、めったなことではため息などつかない方でした。
 少なくとも、僕が見習いとしてこの神殿に寝起きするようになってこの三年、あんなに苦しそうなお顔をされるのを見たことがなかったと思います。
 表向きはいつものように振る舞っておいでですが、僕たちに気を遣い、こっそりと人目にたたないところで吐息をついているお姿には、暗澹たる気持ちになります。
 そんなときは、光り輝くような純白の式服でさえ、心なしか灰色がかって見えるのです。
 火の消えたよう……とはまさにこういう時につかう言葉かと、聖なる炎を見守りながら、僕もうっかり肩を落としてしまいました。
 もしかすると、なにか重いご病気に罹っているのではないでしょうか。
 神官さまは医術の心得がおありですから、さしでがましいことをいうのは控えていましたが、あの冴えないお顔の色といい悩ましげなそぞろ歩き、あまりお眠りになっていらっしゃらないご様子の何もかも、ただ事ではないに違いありません。
 とうとう我慢できず声をおかけしようとしたところ、作男のジャンに腕をつかまれて止められました。そのまま回廊のはしまで引きずられ、柱の影で僕は懇々と説教されました。
 いわく――

 馬鹿かお前、黒死病だって避けて通るあの方が病気なわけあるものか。
 ありゃあ、病はやまいでも、恋の病ってやつだ。
 見りゃあ、わかるだろ?
 え、わからなかった? お前ってやつはしょうがねえなあ。
 なあエミール、本ばっか読んでねえで、すこしは俗世のことも勉強しろや。
 10年前に事情があってお別れしたお姫様がこの街に戻ってこられたんだよ。それは知ってるだろ?

 世事に疎いと自覚する僕でも、さすがにそれは知っていました... (続きを読む)
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歓びの野は死の色す

返信先florentine(磯崎愛)
外伝・月の石
10


「では、そのいたいけな姫君はどうなりますか」
 わたしの問いに、陛下は肩をすくめて一笑した。
「それはその姫君の考えることで、己の仕事じゃない」
「酷いことを」
「酷かろうが、己は皇帝として己の面倒を見るだけで精一杯だ。
 誰もがそうさ。
 だがな、その姫が真実、女神の娘なら、己たちが束になってかかってもどうにもできるものじゃなし」
「なるほど。それは、そうですね」
「ああ、そうさ」
 陛下はそう居直るとまた瞳を閉じた。
「もしも、子が生まれたら」
 わたしの問いには間をおかず、
「子供が生まれたら生まれたでそのとき考えればよい」
「海に流すような真似はしないですみましょうか」
 陛下は眉を寄せて嘆息した。
「そなた、己の世継ぎが欲しかったのではないか?」
「ええ」
「ならば流してどうする。
 そなたが月神を気取りたくばすればよい。だがな、子はどこでどう生まれようと自分で生きていくものさ。話の始めどおり、己の子にしていくいくは帝位に就ければよかろうが」
「陛下?」
「むろん、出来が悪ければ帝都を追う。また帝国に害なすと断じれば始末する。それは今も昔も変わりない。
 そなたはここまでやってきた。この己のいる黄金宮殿へ這い登ってきたのだから、その子にも同じ道を用意してやればいい。あとは本人次第だろう」
「皇子殿下たちには何と説明を?」
「そんなものはいらん」
 鼻で笑い、陛下は再びわたしを見た。
「神の契りと血の縛りがわれらをつくり、この大陸を繋ぎとめておる。それには逆らわんと決めている。
 己は、この帝国を他の親族よりうまく治められると思って帝位に就いたが、本心をいえば、次の皇帝が赤の他人であろうが異教徒・異国人であろうが構わぬよ。
 いや、それでうまく収まるものならば、皇帝という位さえなくていい」
「本気ですか」
「そなたに偽ってどうする?
 己は仕方なくこの役を演じているだけさ。... (続きを読む)
florentine

歓びの野は死の色す

返信先florentine(磯崎愛)
外伝・月の石



 それから数ヵ月後、とうとう皇后陛下が薨去された。
 陛下は表向き、いつもと変わらぬ顔で過ごしていた。いささか酒量が増えたものの、それもすぐに元に戻った。
 まだ三十代の陛下がお独りでいることを、そしてまた、これという飛び抜けた皇位継承者のいないことを、みなが案じていた。

 年が変わって少したち、わたしは陛下に新たに皇后を迎える気がないかと尋ねた。
「世継ぎの件か」
「ええ」
 陛下は書物から顔をあげ、いくらか視線をさまよわせた。
 わたしは、毛皮につつまれて長椅子に横たわる陛下より頭が高くならぬよう絨毯のうえに直に座り、この異国風の生活を好まれた東の国からきた皇后の不在をしみじみと感じていた。
「あれの産んだ子は死んでしまったからな。下らぬ争いなぞせぬよう弁えているはずだが、そなたがいれば、残された凡庸な皇子のうち誰が帝位に就いてもどうにか治まろう。治まるように治めてきたつもりだ」
 君主としての矜持に満ちたことばは、転じてわたしへの信頼の証なのか、脅しなのか、その両方であるのか判じかねた。
「外戚の扱いも面倒だ。そのあたりのことで揉めるのは時間と労力の無駄で済まず、帝国への叛逆と思っておる」
 徒に妃をおいて子を設けすぎた父祖たちへの呪詛をこめて、陛下が吐き捨てた。
 けれどもこの部屋の寒々しさはただ季節ゆえのこととは思えず、拒絶されても今一度お伝えするだけの覚悟ではいた。
 なんと口を切ろうと項垂れたわたしへむけて、陛下はいつものような掠れた笑い声をたててひとこと告げた。
「先に申しておくが、己は面食いぞ」
「陛下?」
「新しく皇后を立てて皇太子が産まれる可能性があるほうが、皇子たちも精進するに違いない。また、皇子を産んだ妃たちの外戚がかまびすしいのも鎮まるだろう。
 何よりも、まだ若いのに枯れた皇帝と思われるよりは、日の神よろしく盛んなほうが行く末頼もしいではないか」
 あ... (続きを読む)
florentine

歓びの野は死の色す

返信先florentine(磯崎愛)
外伝・月の石



 夏至の日、太陽神の装束に身をかためた陛下は、美々しいお付きを従えてことのほか楽しそうに一日を過ごされた。
 そのなかに、ルネの姿はなかった。

 その日の宵、差出人の名前もなく銀香梅の花輪が届けられたことで、わたしはひとり、声なく笑った。彼は、わたしを姫君だとでも勘違いしていたのかもしれない。
 銀香梅――月の神が愛で、花嫁を飾る冠となる、幸福の花。
 信奉する神の愛でる花ゆえに、わたしはそれをただ捨てるにはしのびなく、葉を千切って寝台に落とし、両手を広げてそのうえに横になった。
 彼はきっと、帝都にいる限りにおいては、朔日には《死の女神》の神殿に詣でることだろう。
 わたしがそこを訪うことがなくとも、約束を律儀に守り、あの澄んだ青い目をそっと伏せてわたしのことを祈るだろう。
 恨みもせず、憎みもせず、こころ平らかにそこを後にするに違いない。
 あの穏やかな横顔を眼の裏に浮かべると、芳しい甘い香りにつつまれながら喉に押し込めた声が凝り、その熱が雫となって絖絹に染みをつくった。
 何故そんなことで泣かなければならないのか、泣いているのか、自身に問うことも厭いていた。
 涕は確かにそこにあり、ただそれを想うことだけが凡てだった。

 それから数日後、陛下はわたしを自室に呼び出された。
 片足を抱いて肘をつき頬に手をあてるその仕種は、おそらくわたしと皇后陛下くらいしか知らないであろう、上機嫌の証だった。
「ヴジョー伯爵を知っているな?」
「……はい」
「若いのに、なかなか大した男だ。夏至の日の役目を断った上に、近衛騎士に取り立てるというのまで断ってきた。
 呼び出して問い質すと、学問をしないとならんと言い出すのでならば両方しろと命じたら、領民の血税で勉学しているので早く領地に帰りたいと、任期は一年でいいかとあちらから条件を出してくる。
 清々とした顔で少しも悪びれぬのでこちらが折れた。ひ... (続きを読む)
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外伝・月の石



 無言でいると、彼はわたしの正面にゆっくりと歩み寄った。初めて見かけたときには慣れない長衣をもてあましていたが、今は荘厳にさえ見えた。
 彼はわたしの前でしずかに片膝をつき、さしだされた指輪をいったん自分の手に取り、それからわたしの手を恭しく捧げもって、わたしの中指にそれを嵌めた。
「どうぞ、そのままお納めください。私の無骨な指にそれはあいません」
 彼の手は温かく、背はわたしと変わらないのにその手は大きかった。わたしは自分の前で跪く少年の顔を見た。
 いや、それはもう、少年と呼ぶには柔らかさを失った男の顔だった。
「私はすでに充分すぎるほど、貴方様からご厚情を賜りました。貴方様にはただならぬ恩義を感じております。ですから、その指輪は受け取れません。
 そしてまた、夏至の日の近侍の件、ご推挙いただきましても私はお受けできません」
「このわたしが推挙すると申しているのに」
「されど私はいずれこの都を離れることは決まっておりますゆえ、どうぞその役目は貴方様のおこころに適う方をお選びください」
「なぜだ」
「貴方様からいただいたお言葉ゆえでございます。私は、貴方様によって自分の本当の想いを知らされました。もう自分には嘘はつけないのです」
 拒絶されたのがこちらであることに気がついて、わたしの胸は一気に冷えた。
 わたしの寵を、優遇を、そして命令までも彼はこの上ない礼儀正しさで撥ねつけたのだ。
 自分の指先が無様に震えるのを見た。
 彼はそれを握り締め、わたしの瞳をのぞきこむようにして続けた。
「私が帝都におりますのはおそらくあと一年のことと思います。私は毎月、朔日の夜には《死の女神》の神殿へ詣でます。貴方様がいらしてくだされば、それに勝る喜びはありません」
 わたしはその手を振り解いた。
「……さがれ」
 彼はわたしの顔を見つめ、彼から目をそらすのを見て、胸を痛めるような表情で膝をおこした... (続きを読む)
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外伝・月の石



 わたしはその顔をじっと見つめた。
 彼が、自分の出世をふいにしてもわたしとの約束を守ろうとしてくれていることがうれしかった。たとえ故郷に帰るにしても、陛下の近侍としての役目をいただけることがどのような栄誉であるか、彼は熟知しているはずだ。
 また、それを断っても自分の立場が思っている以上には悪くならないと確信できるほど、この一年で神殿や宮殿で地位を得たことにも気がついた。
 わたしは、この世の絶対者である陛下を袖にしてまでわたしに付き合ってくれようとする人間をおのれが持ちえたことが、心底恐ろしくなっていた。
 そうまでしてくれた彼に、わたしは何を返せばいいのだろう。
 いや、彼は、わたしから何かを引き出そうと思っているわけではない。
 それは、わかりすぎるくらいよく理解していた。
 しかしながら、わたしはその理解を拒絶した。
「ルネ、そなたがこの黄金宮殿で然るべき地位を得るのに手を貸さなかったわたしを恨まず、今までよく尽くしてくれた」
 彼は怪訝そうな顔でこちらを見た。
「わたしからあらためて、そなたを夏至の日の近侍に推挙しておこう」
「月の君?」
「去年、露台に立っているそなたを見たときにそう思いついたのだ。よい機会だ。わたしからの推薦であれば、陛下はもちろん、そなたが恥知らずに断りを入れた大神官などにも顔が立とう」
 わたしは呼び鈴をふり、書類の手配を命じた。
 彼はそれを、蒼い顔で見つめていた。
 わたしは書き物机へと向かい、立ち尽くしたままのルネへと顔をむけた。
「用事はすんだ。帰ってよい」
「月の君」
「他になんぞ、願い事でもあるのか?」
「私はっ」
 怒りに紅潮した頬を眺め、わたしは冷たい一瞥をくれてから、彼がまだそこに佇み何も言えずにいるのを見てとり、自分の指輪を外した。
「わたしはそなたに大層世話になった。今までの礼にこれを取らす。そなたの身分では財産になるほど高価... (続きを読む)
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外伝・月の石



 彼と知り合って一年がすぎた。
 その年の五月、わたしは珍しくルネ・ド・ヴジョーを私室へと呼びつけた。
 大神官から彼を説得してくれと申し入れがあったのだ。
 大神官がわたしと彼の間柄を知っていたことは意外だった。
 そして、そう思ってからすぐに、彼ではなくこのわたしに太陽神殿の密偵がはられていることを察した。
 養父であり義父である男とわたしの妻が死ねば、わたしはこの世界でいちばんの金持ちになるのだった。
 わたしはそのことを以前から身にしみて理解していたはずが、この一年ほど忘れていたのだった。少なくとも、ルネ・ド・ヴジョーと会っている間は、わたしはそれをすっかりないことにしていた。
 彼は、そうしたことに頓着しない性質で、相手が誰であろうと自分の意見や考えをまっすぐに述べた。その清しさを、わたしは愛した。
 その一方、彼は自分とわたしが親しい間柄であることを誰にも口にせず、もちろんそれに甘えることもなかった。
 たまに二人だけで会えばせんのように酒を飲んで軽口を交わしたりするが、ひとのいるところでは改まった態度を崩さずに宮殿で過ごしてきた。
 だから、彼がわたしの私室に足を踏み入れたのはそれが初めてのことだった。
 気後れもなく部屋に入ってきた彼は、神官職だけが許される純白の高貴な式服を身に着けていた。歴代最少年とはいわずとも、それに近いほどの異例の出世であった。
 すぐさま用件をつたえ仔細を問いただすと、彼は正直にこたえた。
「たしかに、夏至の日は陛下の近侍の役を賜るとのお話がありましたが、大神官様にお断りいたしました」
 真顔でそう言ってのけた顔を見て、わたしは暫く声も出なかった。まさか本当にすぐさま断っているとは思いもしなかったのだ。
「ルネ、なんと言って断ったのだ」
「先約があると」
「先約!」
 笑い声が喉で凝った。
「皇帝陛下の命令を、この大陸中でその役に就きたいと願... (続きを読む)
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