語られるもの、プレイされるもの。
=w=;;; このお話、キーワードの切り分けしくじっちゃって……
http://h.hatena.ne.jp/keyword/%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3
http://h.hatena.ne.jp/keyword/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%8E%E3%83%99%E3%83%AB%E3%80%8C%E8%B6%85%E3%80%8D%E5%85%A5%E9%96%80
この二つのキーワードも話題の流れの前提になります。
http://h.hatena.ne.jp/keyword/%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3
http://h.hatena.ne.jp/keyword/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%8E%E3%83%99%E3%83%AB%E3%80%8C%E8%B6%85%E3%80%8D%E5%85%A5%E9%96%80
この二つのキーワードも話題の流れの前提になります。
語られるもの、プレイされるもの。
http://h.hatena.ne.jp/koutyalemon/9234094612640816825
前提エントリのキーワード統合するための再掲載です。
この作品で創り手と受け手の間の「性格=行動様式=外見やアイテムの束」の共通認識の一致が一番解りやすいのが、柊つかさだと思います。
もともと、神岸あかりというキャラがいて
http://aquaplus.jp/th/chr_prof.html
このヘアバンドをつけて、こういう外見のキャラは
「面倒見がよく、やや世話焼き。少々お調子ノリなところもある」
的な、神岸あかり的性格である。という記号(創り手とユーザーの共通認識=お約束)を持つにいたりました。
TRPG時代の泉こなたは、漫画にくらべてクールな印象のスポーツ少女なのですが、これは初期のクールなこなたの描写に影響を与えているとのことです。
こなたが格闘技が出来るのはTRPG時代の名残です。
前提エントリのキーワード統合するための再掲載です。
この作品で創り手と受け手の間の「性格=行動様式=外見やアイテムの束」の共通認識の一致が一番解りやすいのが、柊つかさだと思います。
もともと、神岸あかりというキャラがいて
http://aquaplus.jp/th/chr_prof.html
このヘアバンドをつけて、こういう外見のキャラは
「面倒見がよく、やや世話焼き。少々お調子ノリなところもある」
的な、神岸あかり的性格である。という記号(創り手とユーザーの共通認識=お約束)を持つにいたりました。
TRPG時代の泉こなたは、漫画にくらべてクールな印象のスポーツ少女なのですが、これは初期のクールなこなたの描写に影響を与えているとのことです。
こなたが格闘技が出来るのはTRPG時代の名残です。
語られるもの、プレイされるもの。
前提エントリのキーワード統合するための再掲載です。
http://h.hatena.ne.jp/koutyalemon/9234077020742394800

この「登場人物」は「性格=行動様式=外見やアイテムの束」である。
という思想の一つの頂点が「らき☆すた」でした。
↑の画像をクリックするとわかるのですが、この漫画は TRPGで作ったキャラクターに、日常会話をさせるという基礎構造を有しています。
このキャラクターの設定や能力値が書いてある紙が、TRPGにおけるキャラクターシートです。
http://h.hatena.ne.jp/koutyalemon/9234077020742394800

この「登場人物」は「性格=行動様式=外見やアイテムの束」である。
という思想の一つの頂点が「らき☆すた」でした。
↑の画像をクリックするとわかるのですが、この漫画は TRPGで作ったキャラクターに、日常会話をさせるという基礎構造を有しています。
このキャラクターの設定や能力値が書いてある紙が、TRPGにおけるキャラクターシートです。
語られるもの、プレイされるもの。
前提エントリのキーワード統合するための再掲載です。
http://h.hatena.ne.jp/koutyalemon/9234077020742394800
では、このキャラクターの物語に対する優越と選択肢を巡る構造は、どの時代に始まったのでしょうか?
やはりこれは1997年のTo Heartからかと思います。
http://www.tinami.com/x/interview/04/page9.html
↑ はTo HeartにおけるTRPG的事情です。
ノベルゲームを物語を読む感覚でプレイするか、ごっこ遊びをしてる感覚でプレイするかで全然変わってくるとは思いますけど。後者ならその要素はあって当然ですよね。『浩之』というキャラクターを演じる楽しさというか。
ここはノベルゲームを物語を読む感覚でプレイするとラノベに。
ごっこ遊びをする感覚で読むとTRPGへという図式で良いと思われます。
ライトノベル「超」入門で、
あとは、外部から状況を与えてやればいい。それは作者が事前に与えてもいいし、ユーザーがボタンを押すことで複数の選択肢の中から与えてもいい。前者がライトノベルをはじめとするエンターテイメント・フィクションの現状で、後者がいわゆるゲームの構造です。
と書いている、ラノベ圏とTRPG圏の違いです。
──なぜでしょう。チュンソフトの中村さんがロールプレイをまるで考えなかったとも思えないんですが。
高橋:どっちが良いという話ではないと思います。プレイヤーとの一体感でいえば無個性タイプが最適ですし、主人公が勝手に動くとより読み物としての色が濃くなりますから。ただ、そればかりだと飽きてくる。たまには違った主人公で遊びたくなるんです。さっき出た TRPGで例えると、あれを遊び始めたばかりの初心者は自分自身をキャラクターに投影して遊ぶんです。自分自身が... (Read more)
http://h.hatena.ne.jp/koutyalemon/9234077020742394800
では、このキャラクターの物語に対する優越と選択肢を巡る構造は、どの時代に始まったのでしょうか?
やはりこれは1997年のTo Heartからかと思います。
http://www.tinami.com/x/interview/04/page9.html
↑ はTo HeartにおけるTRPG的事情です。
ノベルゲームを物語を読む感覚でプレイするか、ごっこ遊びをしてる感覚でプレイするかで全然変わってくるとは思いますけど。後者ならその要素はあって当然ですよね。『浩之』というキャラクターを演じる楽しさというか。
ここはノベルゲームを物語を読む感覚でプレイするとラノベに。
ごっこ遊びをする感覚で読むとTRPGへという図式で良いと思われます。
ライトノベル「超」入門で、
あとは、外部から状況を与えてやればいい。それは作者が事前に与えてもいいし、ユーザーがボタンを押すことで複数の選択肢の中から与えてもいい。前者がライトノベルをはじめとするエンターテイメント・フィクションの現状で、後者がいわゆるゲームの構造です。
と書いている、ラノベ圏とTRPG圏の違いです。
──なぜでしょう。チュンソフトの中村さんがロールプレイをまるで考えなかったとも思えないんですが。
高橋:どっちが良いという話ではないと思います。プレイヤーとの一体感でいえば無個性タイプが最適ですし、主人公が勝手に動くとより読み物としての色が濃くなりますから。ただ、そればかりだと飽きてくる。たまには違った主人公で遊びたくなるんです。さっき出た TRPGで例えると、あれを遊び始めたばかりの初心者は自分自身をキャラクターに投影して遊ぶんです。自分自身が... (Read more)
語られるもの、プレイされるもの。
で、語られるもの。
http://www.critiqueofgames.net/data/index.php?%B0%EC%B2%F3%C0%AD
一手戻って井上明人さんの文書から。
――一回性とは何か。
現実において全く同じことが何度も繰り返される、ということはなく全てのものごとは一回一回限りのオリジナルなことであり、何度も繰り返されているのように思われるようなものというのは実はコピー(まがいもの)である。たった一度の行為であるからこそ、そこには緊張感が伴い、その時々にどのような行動を選び取るか、ということが緊張感を持って体験される。このような緊張感をもった体験が一回性である、と理解しておこう。
この定義をおさえつつ、
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/geinohsi23.htm
武士が芸能のなかで能楽をかろうじて認めたのは、「能楽は一回の公演を原則としており・その上演に全精力を注ぎ込むことができるから」と三島は言っています。もちろん能楽者もそこで死ぬわけではありませんが、精力を使い果たすほどに演じきれば・しばらくは舞台に立てないということで「一回性」がかろうじて果たされているということなのです。
芸能の「一回性」というのはもともと祭事的なものです。基本的に「決定的なことがなされて・それで終り」、あとには静寂だけが残って・何も残らない、そういうものが「祭り」の本質です。三島はこれを「花火」と言っております。「決定的なこと」とは言え、芸能のやることは所詮はウソには違いありません。一回性を喪失した芸能は「興行(エンタテイメント)」の要素を持ち始めるのです。つねに「これを繰り返す・再現性をもつ」ということです。
このように祭事と興行との間には質的な・しかも決定的な相違があります。じつは祭事でも興行でもウソを演じていることで... (Read more)
http://www.critiqueofgames.net/data/index.php?%B0%EC%B2%F3%C0%AD
一手戻って井上明人さんの文書から。
――一回性とは何か。
現実において全く同じことが何度も繰り返される、ということはなく全てのものごとは一回一回限りのオリジナルなことであり、何度も繰り返されているのように思われるようなものというのは実はコピー(まがいもの)である。たった一度の行為であるからこそ、そこには緊張感が伴い、その時々にどのような行動を選び取るか、ということが緊張感を持って体験される。このような緊張感をもった体験が一回性である、と理解しておこう。
この定義をおさえつつ、
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/geinohsi23.htm
武士が芸能のなかで能楽をかろうじて認めたのは、「能楽は一回の公演を原則としており・その上演に全精力を注ぎ込むことができるから」と三島は言っています。もちろん能楽者もそこで死ぬわけではありませんが、精力を使い果たすほどに演じきれば・しばらくは舞台に立てないということで「一回性」がかろうじて果たされているということなのです。
芸能の「一回性」というのはもともと祭事的なものです。基本的に「決定的なことがなされて・それで終り」、あとには静寂だけが残って・何も残らない、そういうものが「祭り」の本質です。三島はこれを「花火」と言っております。「決定的なこと」とは言え、芸能のやることは所詮はウソには違いありません。一回性を喪失した芸能は「興行(エンタテイメント)」の要素を持ち始めるのです。つねに「これを繰り返す・再現性をもつ」ということです。
このように祭事と興行との間には質的な・しかも決定的な相違があります。じつは祭事でも興行でもウソを演じていることで... (Read more)
語られるもの、プレイされるもの。
http://www.scoopsrpg.com/contents/Ludology/Ludology_20090130.html
「文芸批評家のためのルドロジー入門」。
筑波批評社(まーggincさんたちのサークルなんですが)がゼロアカで発表したルドロジーの入門用解説文です。
よって動ポ2から連なる、一連の文脈を引き継いだ文章としても実は読めます。
もし、私たちが「何がゲームなのか」を知りたいわけではなく、「何がよいゲームなのか」を知りたいのであれば、私たちはいったんゲームの客観的(objective)な定義から離れ、ゲームを受容する主体にも着目する必要が出てくる。その代表的な議論として、ラフ・コスターの〈チャンク〉をめぐる考察を取り上げたい。
(中略)
このようなパターンを彼は〈チャンク〉と呼ぶ。そして、パターンを覚え込む作業(=チャンク化)の快楽こそが、ゲームのおもしろさをもたらすものであると考えているのだ。
1.〈ノイズ〉(noise):
プレーヤーが「学習可能なパターン」として対象を認識できない段階
2.〈チャンク〉(chunk):
プレーヤーが「学習可能なパターン」を認識し、〈チャンク化〉を試みる段階
3.〈グロック〉(grok):
プレーヤーが「学習可能なパターン」をすべて学習し終え、退屈になってしまった段階
彼の意図とはだいぶ違う読みなのですが、意味不明/面白い/飽きたという構造と、変容/再設計って図式は他のメディアにも適応できるのではないでしょうか。
また、この文章は
ゲームとは試合であって,そこでの死とは敗北やセットバックを意味しているにすぎないと考える「死の複数性」極を持つ軸
という前提を持つのではないでしょうか。
このあたりのTRPG的諸事情をふまえつつ、今度は反対側である、語られるもの&「死の... (Read more)
「文芸批評家のためのルドロジー入門」。
筑波批評社(まーggincさんたちのサークルなんですが)がゼロアカで発表したルドロジーの入門用解説文です。
よって動ポ2から連なる、一連の文脈を引き継いだ文章としても実は読めます。
もし、私たちが「何がゲームなのか」を知りたいわけではなく、「何がよいゲームなのか」を知りたいのであれば、私たちはいったんゲームの客観的(objective)な定義から離れ、ゲームを受容する主体にも着目する必要が出てくる。その代表的な議論として、ラフ・コスターの〈チャンク〉をめぐる考察を取り上げたい。
(中略)
このようなパターンを彼は〈チャンク〉と呼ぶ。そして、パターンを覚え込む作業(=チャンク化)の快楽こそが、ゲームのおもしろさをもたらすものであると考えているのだ。
1.〈ノイズ〉(noise):
プレーヤーが「学習可能なパターン」として対象を認識できない段階
2.〈チャンク〉(chunk):
プレーヤーが「学習可能なパターン」を認識し、〈チャンク化〉を試みる段階
3.〈グロック〉(grok):
プレーヤーが「学習可能なパターン」をすべて学習し終え、退屈になってしまった段階
彼の意図とはだいぶ違う読みなのですが、意味不明/面白い/飽きたという構造と、変容/再設計って図式は他のメディアにも適応できるのではないでしょうか。
また、この文章は
ゲームとは試合であって,そこでの死とは敗北やセットバックを意味しているにすぎないと考える「死の複数性」極を持つ軸
という前提を持つのではないでしょうか。
このあたりのTRPG的諸事情をふまえつつ、今度は反対側である、語られるもの&「死の... (Read more)
語られるもの、プレイされるもの。
http://www.4gamer.net/news/history/2006.04/20060421235540detail.html
以下、引用文ー。
――技術的または規制上の理由により,死の表現は過激化と婉曲化の二方向に分離していく,と結論づけている。
そしてその現状に対し,過激化した表現には社会的な悪影響が論ぜられ(近年ではGTA3に対する非難が最も分かりやすい例),婉曲化した表現に対してはその欺瞞に対する批判が,そして双方の表現に対して「いずれにしてもチープな死の表現に過ぎない」という批判がなされてきたのである,とした。
そうした現状認識をもとに,井上氏は「ゲームにおける死」には,ここで議論されていない軸があるのではないか,と問題を提起する。それは,同じ「ゲーム」という構造の中に,ゲームとは表現手段であり,そこでの死は現実の死の描写に連なる(ノベルゲームが最右翼)と考える「死の固有性」極と,ゲームとは試合であって,そこでの死とは敗北やセットバックを意味しているにすぎないと考える「死の複数性」極を持つ軸があるのではないか,という指摘である。
語られるものだとするならば、「死の固有性」へ。
プレイされるものだとするならば、「死の複数性」へ。
という分岐って読みで良いかと思います。
以下、引用文ー。
――技術的または規制上の理由により,死の表現は過激化と婉曲化の二方向に分離していく,と結論づけている。
そしてその現状に対し,過激化した表現には社会的な悪影響が論ぜられ(近年ではGTA3に対する非難が最も分かりやすい例),婉曲化した表現に対してはその欺瞞に対する批判が,そして双方の表現に対して「いずれにしてもチープな死の表現に過ぎない」という批判がなされてきたのである,とした。
そうした現状認識をもとに,井上氏は「ゲームにおける死」には,ここで議論されていない軸があるのではないか,と問題を提起する。それは,同じ「ゲーム」という構造の中に,ゲームとは表現手段であり,そこでの死は現実の死の描写に連なる(ノベルゲームが最右翼)と考える「死の固有性」極と,ゲームとは試合であって,そこでの死とは敗北やセットバックを意味しているにすぎないと考える「死の複数性」極を持つ軸があるのではないか,という指摘である。
語られるものだとするならば、「死の固有性」へ。
プレイされるものだとするならば、「死の複数性」へ。
という分岐って読みで良いかと思います。
語られるもの、プレイされるもの。
前エントリの↓の部分をもうちょっと掘り下げてみます。
ノベルゲームを物語を読む感覚でプレイするか、ごっこ遊びをしてる感覚でプレイするかで全然変わってくるとは思いますけど。
http://www.4gamer.net/news/history/2006.04/20060421235540detail.html
この問題は↑がわかりやすいです。
研究会の名前にもなっているとおり,彼らがゲームを捉える視線は,ルドロジー(ludology。「ホモ・ルーデンス」という場合と同じ意味の遊び要素)に基づく狭義のゲームデザインおよび,ナラトロジー(narratology。語り)要素という,2本の軸から成っている。つまり,ゲームを何らかの「語られるもの」かつ「プレイされるもの」として見ていくということだ。
このルドロジーとナラトロジーという二つの言葉が、
ノベルゲームを物語を読む感覚でプレイする(語られるもの)か、ごっこ遊びをしてる感覚でプレイする(プレイされるもの)かで全然変わってくるとは思いますけど。
対応するという読みで良いでしょう。
ノベルゲームを物語を読む感覚でプレイするか、ごっこ遊びをしてる感覚でプレイするかで全然変わってくるとは思いますけど。
http://www.4gamer.net/news/history/2006.04/20060421235540detail.html
この問題は↑がわかりやすいです。
研究会の名前にもなっているとおり,彼らがゲームを捉える視線は,ルドロジー(ludology。「ホモ・ルーデンス」という場合と同じ意味の遊び要素)に基づく狭義のゲームデザインおよび,ナラトロジー(narratology。語り)要素という,2本の軸から成っている。つまり,ゲームを何らかの「語られるもの」かつ「プレイされるもの」として見ていくということだ。
このルドロジーとナラトロジーという二つの言葉が、
ノベルゲームを物語を読む感覚でプレイする(語られるもの)か、ごっこ遊びをしてる感覚でプレイする(プレイされるもの)かで全然変わってくるとは思いますけど。
対応するという読みで良いでしょう。

