kmizusawa's entry
id:kmizusawa
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差別というのは社会構造(カテゴリー間力関係)に関わる問題であって、個別の具体的場面で誰がどうしたとか、個人の悪気のあるなしとか、実感としてどうだとか、そーゆー問題ではない、ということは何度認識しなおしてもよいこと。
でもこの、社会構造ってのがわかりにくい。
だって俺らが生活していて、ふだん目に入ってくるのは、個別の具体的状況だもんね。そしてそこで人目につき、話題になり、目立って見えるのは、おうおうにして、女性専用車両とかレディースセットとか高齢者優待割引権とか生活保護に税金がどんだけ使われてるという報道とか雇用の障害者枠とか自分が働いているときにヒマそうにしている人とか昼間から喫茶店でお茶してる主婦っぽい人とか、そういったもので、しかも自分を振り返れば、特にいい思いをしているわけでもない。自分が遊んでいるときに働いている人もいるはずだが、それは「仕事なんだから当たり前だろ」で片付いてしまう。喫茶店でお茶してる人がそのあと仕事に行くかもとかしばしの息抜きかもということも考えない。たいていの人は自己中なものだ。そして目に入らないことや考えないことは簡単に「ない」ことになってしまう。
よって「女や高齢者や障害者ばかりが優遇されてる」「真面目に働いている俺らはたいして報われないのに怠け者の主婦や無職者や生活保護受給者は俺らの税金や誰かの稼ぎでぬくぬく暮らしてる」ていうような認識になってしまう。さらにこれに「外国人が俺らの職を奪うのではないか」とか「参政権与えるとのっとられるのではないか」とかいう疑心暗鬼と不安。目の前のことと漠然とした不安のせいで自分こそがいちばんの被害者っつーことになってるんだよな大半のマジョリティは。
逆に自分たちマジョリティのそういった自己中思考がマイノリティを踏んでるかもってことは、具体的に誰かをいじめたとかいじめられているのを見たとかいうことでもない限り、「そんな事実は無い」ってことになるし、見かけたとしても、それはそいつの人間性の問題だということになってしまう。
そういう風にしか物事をみることができない。そういう風に物事を見る訓練しか受けてない。被差別者ですら、人によっては自分の実感を元にして、もはや差別などないと言ってしまうほどだ。
差別に関するTwitterなどでの議論見てると、これはもはや文化の問題なのでは、って気がしてくる。差別というのを個別の振る舞いの問題としてしか教えない社会では、「お前は差別している側だ」ってのは人間性に問題があると言われるのと同じで、人格否定するような侮辱と受け取られるし、逆に「差別」という言葉は人格否定をするための便利な言葉として、他人を侮辱したり、日常生活の不満を気に食わない誰かに責任転嫁するための言葉としても簡単に使われる。あいつはもてているのに俺はいつもふられるこれは差別だ、みたいに。
差別ってのは社会構造(カテゴリー間力関係)に関わる問題であって、我々は皆それに関係しているのであり、それを知ったあと、それに対してどういう態度をとるか(それを少しでも解消すべく行動したり発言したりするのか、それとも現状維持を望むのか)が問われているのである、ということがわかっているのは、日本社会村ではある程度、勉強する機会のあった人だと思う。ほんとは義務教育などで教えておくべきことなのに。
でもこの、社会構造ってのがわかりにくい。
だって俺らが生活していて、ふだん目に入ってくるのは、個別の具体的状況だもんね。そしてそこで人目につき、話題になり、目立って見えるのは、おうおうにして、女性専用車両とかレディースセットとか高齢者優待割引権とか生活保護に税金がどんだけ使われてるという報道とか雇用の障害者枠とか自分が働いているときにヒマそうにしている人とか昼間から喫茶店でお茶してる主婦っぽい人とか、そういったもので、しかも自分を振り返れば、特にいい思いをしているわけでもない。自分が遊んでいるときに働いている人もいるはずだが、それは「仕事なんだから当たり前だろ」で片付いてしまう。喫茶店でお茶してる人がそのあと仕事に行くかもとかしばしの息抜きかもということも考えない。たいていの人は自己中なものだ。そして目に入らないことや考えないことは簡単に「ない」ことになってしまう。
よって「女や高齢者や障害者ばかりが優遇されてる」「真面目に働いている俺らはたいして報われないのに怠け者の主婦や無職者や生活保護受給者は俺らの税金や誰かの稼ぎでぬくぬく暮らしてる」ていうような認識になってしまう。さらにこれに「外国人が俺らの職を奪うのではないか」とか「参政権与えるとのっとられるのではないか」とかいう疑心暗鬼と不安。目の前のことと漠然とした不安のせいで自分こそがいちばんの被害者っつーことになってるんだよな大半のマジョリティは。
逆に自分たちマジョリティのそういった自己中思考がマイノリティを踏んでるかもってことは、具体的に誰かをいじめたとかいじめられているのを見たとかいうことでもない限り、「そんな事実は無い」ってことになるし、見かけたとしても、それはそいつの人間性の問題だということになってしまう。
そういう風にしか物事をみることができない。そういう風に物事を見る訓練しか受けてない。被差別者ですら、人によっては自分の実感を元にして、もはや差別などないと言ってしまうほどだ。
差別に関するTwitterなどでの議論見てると、これはもはや文化の問題なのでは、って気がしてくる。差別というのを個別の振る舞いの問題としてしか教えない社会では、「お前は差別している側だ」ってのは人間性に問題があると言われるのと同じで、人格否定するような侮辱と受け取られるし、逆に「差別」という言葉は人格否定をするための便利な言葉として、他人を侮辱したり、日常生活の不満を気に食わない誰かに責任転嫁するための言葉としても簡単に使われる。あいつはもてているのに俺はいつもふられるこれは差別だ、みたいに。
差別ってのは社会構造(カテゴリー間力関係)に関わる問題であって、我々は皆それに関係しているのであり、それを知ったあと、それに対してどういう態度をとるか(それを少しでも解消すべく行動したり発言したりするのか、それとも現状維持を望むのか)が問われているのである、ということがわかっているのは、日本社会村ではある程度、勉強する機会のあった人だと思う。ほんとは義務教育などで教えておくべきことなのに。




