p_shirokuma Hatena Haiku Citizen (Gold 333 days)

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 子どもの自立の課題達成も、攻撃性と発達の重要なテーマとなる。Storrはこのテーマに次のような指摘をしている。依存と攻撃心は密接に結び合わさっていることから、子どもの依存性にも関心を向けなくてはならない。他人に依存的なままでいればいるほど、攻撃心はその人の内部に、よりいっそう潜在することになる。他人に依存的であるということは、その人に支配されているということである。それゆえ彼らの力を束縛的に感じ、その影響を克服しなければならないと感じるのである。子どもの世界は、まさに子どもが依存的であるがゆえに、征服しなければならない巨人ややっつけなくてはならない魔法使いが住んでいる。
 
 本間博彰 編 『子どもの心の診療シリーズ7 子どもの攻撃性と破壊的行動障害』2011、中山書店 P14-15 より
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 登校拒否の発症に関連する要因については、たとえば、いじめや成績の低下、病気で学校を休んだこと、宿題ができなかったことなど、さまざまな要因が指摘されている。
 
 もちろんそれらは重要な発症契機であろうが、それらの発症契機の基盤にあるのは、ちょうど本人が思春期に突入し、自律的な行動を要請されるようになってくるという対人関係状況が関連していると思われる。真面目で几帳面で自己主張をしないこれらの子どもたちは、思春期に至るまでは聞き分けの良い模範生で通っていた。しかし思春期に至り、自律的な行動を周囲から要請されるようになると、これらの子どもは困惑することになる。なぜなら、そのような行動は子どもたちがこれまで取ったことのない、最も苦手なソーシャルスキルであるからである。それゆえ、このような状況をとりあえず回避するために、家庭という子どもにとってこれまでの行動パターンで対処することのできる安全地帯に逃げ込むのである。
 
 斎藤万比古、笠原麻里 編 『子どもの心の診療シリーズ6 子どもの人格発達の障害』2011、中山書店 P147-148 より
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 性的行動や意識される性的願望は、その裏にある無意識の目的との関係で非常に複雑であるということがある。ある人にとっては、性的願望は実は自分自身の男らしさを確認する願望を意味しているかもしれない。また別の人にとっては結局、自分を印象づけたり、親密性・友好性を求めたり、安全を求めたり、愛情を求めたり、あるいはそれらが組み合わさったりする願望を表しているかもしれない。こういった場合に、意識のうえでは性的願望の内容はみな同じといえるので、人は皆、単に性的満足だけを求めていると誤解しがちである。しかしこれは正しくないのであって、個人個人を理解するには意識されたものよりも無意識のうちでこの性的願望や行動がいったい何を表しているのかを知ることが大切なのである(このことは一連の行動のうち、予備的行動においてもまた完成行動においても同様である)。
 これを支持するもう一つの証拠に、精神病理学上の徴候がある。すなわち、一つの徴候が同時にいくつかの異なる願望、時には全く反対の願望さえも表すことがある。たとえばヒステリー性の麻痺した腕が表しているのは、復讐・憐れみ・愛情・尊敬といったものを同時に満足させようとする願望であるといってさしつかえない。最初の例のような意識のうえに現れた願望や、第二の例のような行動面だけに現れたはっきりした徴候だけを扱うなら、我々は人間の行動と動機づけ状態を、全体的に理解することはできなくなるであろう。強調しておきたいことは、一つの行為あるいは一つの意識された願望が、たった一つの動機づけによるということはめったに な い ということである。
 
 A.H.マズロー 著 小口忠彦 訳『人間性の心理学 モチベーションとパーソナリティ』産業能率大学出版部刊、1987、P37-38より抜粋
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 【切断 amputations】
 
 車輪を例にとろう(マクルーハンの用いた例である)。新しいテクノロジーである車輪(人間の足の拡張)は、運搬の重圧を人間の足から取り除いてくれた。ところが車輪は、足の機能を身体の他の動きから分離あるいは孤立させることで、新しい重圧を生み出した。自転車のペダルを踏むときも、高速道路でアクセルを踏んで速度を上げるときも、足は、特別な仕事を課されているため、その最中には歩くという基本機能の実行は許されない。ゆえに、この車輪というメディアははるかに速く移動する能力を人に与えているにもかかわらず、人は、別の意味で動けなくなっている。麻痺しているのである。このように、新しいテクノロジーは私たちに拡張(extension)と切断(amputation)の両方をもたらす。
 
 W.テレンス・ゴードン 著 宮澤淳一 訳『マクルーハン』ちくま学芸文庫、2001、P64より抜粋
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 思春期・青年期の精神性的および精神社会的な発達で重要と思われるのは、第一に、思春期前半における親表象からの脱備給の進行と、それに伴う近親姦幻想と神経症性の罪悪感の減少である。この脱備給の進行は性的な自己を意識的に想像することを可能にする。そして同性同年代の親密な仲間のなかで性的な興味を分かちあい、みんなもそうなのだと確認する。そして、自分はこれで良いのだ、と安心するのである。これができない若者にとって、教室内に充満する性的な雰囲気は耐え難いほどの苦痛になる。女子中学生は、これに加えて同性仲間との厳しい相互拘束に耐えなければならない。たとえば、一緒に昼食をとる仲間がいなくなると、クラスの中にとどまることはできなくなる。そして図書室や保健室を歩き回る。そこで養護教諭らの助け舟を得てクラスに戻ることのできる幸運な女子生徒もいれば、仲間に戻れずに不登校に陥る女子生徒もいる。
 
 斎藤万比古、笠原麻里 編 『子どもの心の診療シリーズ6 子どもの人格発達の障害』2011、中山書店 P102 より
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 代理母の初期研究に続いてHarlowらは、子ザルを長期間完全に母親からも同胞からも分離した全隔離(total isolation)や、物理的接触のみが疎外された部分隔離(partial isolation)の成長後の行動に及ぼす影響を解析している。
 
 partial isolationの及ぼす影響についてはtotal isolationに比べて軽度であったが、焦点の合わない視線・常同的にくるくる回る行動の反復・自傷行為などの異常行動が報告されている。これに対してtotal isolationでは3、6、12ヶ月と期間が延長するに従って、子ザルの行動は荒廃し衰弱した行動となり、12ヶ月後には社会性の消失した子ザルになったと報告している。本来サルは群れを為して行動する動物であるため、幼少期の隔離が成長後の社会性に甚大なる影響を及ぼすことは、程度の差こそあれ予想された結果という、彼らの研究に対する批判がある。このような批判に対して一連の隔離実験で興味深いのは、彼らはtotal isolationした子ザルを元の群れに戻して、障害された社会行動がリハビリテーションによって回復するかを観察した点である。このリハビリテーション実験では6ヶ月間のtotal isolation後に、正常飼育された同年齢の子ザルと一緒に飼育する環境に戻したところ、単純な社会的行動の一部のみしか修復されないことが報告されている。母ザルによる養育行動の受容も、養育行動が強制された環境下でのみ可能であったことも報告されている。逆にリハビリテーションとして効果のあった飼育環境は、6ヶ月間のtotal isolation後に同じ年齢のサルではなく3ヶ月齢のサルと一緒に飼育する環境であり、この環境の提供により損なわれていた社会的行動はほぼ修復されることがわかった。このような子ザルの隔離実験の成果は、特に愛着行動を中心とした養育環境が、成長過程での社会的行動の獲得形成に重要であることを提唱している。
 
 斎藤万比古、笠原麻里 編 『子どもの心の診療シリーズ6 子どもの人格発達の障害』2011、中山書店 P69 より
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 白人の良心は、つねにより高い標準をめざしてやまない職業を求めて彼自身をたえまなく改革することを要求する。この改革はますます内面化された良心を要請する。それは自動的にそして無意識的に、またそばに批判的な観察者がいなくても誘惑に対して負けない良心である。
 インディアンの良心は、むしろ明確に定義された名誉と恥辱の制度のなかで当惑するような事態を避ける必要性に拘泥していて、「内なる声」によってのみ解決できるような葛藤場面においては行動の方向づけをもっていない。
 
 (文化圏ごとの教育制度・社会制度の違いと精神発達に関する記述から)
 E.エリクソン 著 仁科弥生 訳 『幼児期と社会 I』1977、みすず書房 P194 より
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 つまり、運動能力が高いグループは低いグループに比較して、「ルールが明確な遊びを好む」「チームで協力する遊びを好む」「リーダー役になることが多い」「他の子に命令することが多い特徴を示し、また、「いつもよく遊ぶ友達の数の平均」についても、運動能力が高いグループが低いグループに比較して高い数値を示している。一方で、運動能力が低いグループは高いグループと比較して、「友達との意思の疎通が難しい」「他の子に付いて遊ぶことが多い」「一人で遊ぶのが好き」「ぼーっとしていることがある」項目で高い数値を示した。
 
 次に見方を変えて、友達の平均数の多少で比較を次に見方を変えて、友達の平均数の多少で比較をしてみたものが表5である。(中略)すなわち、よく遊ぶ友達の数の平均が多い子は少ない子に比べて、月齢は高く、走、跳、投のいずれの運動能力項目においても優れており、総合的な運動能力は高い。また、「ルールが明確な遊びを好む」「チームで協力する遊びを好む」「友達と遊ぶのが好き」「リーダー役になることが多い」「他の子に命令することが多い」特徴を示している。
 
 美作大学・美作大学短期大学部紀要(通巻第56号抜刷) 『幼児期の運動能力と群れ遊びの関係について』 長谷川 勝 一 " 55 " 幼児期の運動能力と群れ遊びの関係について より抜粋
 
 http://mimasaka.jp/library/themes/pdf/bulletin/2011/pdf/445610055G.pdf
 
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 個人化は、この意味で、人間の人生があらかじめ決められた状態から解き放たれたということを意味している。つまりまだ確定されていないもの、個々人の決定に左右されるものとなったということ、人生の成り行きが個々人の課題として個人の行為にゆだねられているのだということである。人生を形づくっていく上で、原則的に個々人の決定の余地がないような場面は減少し、個々人の決定に左右される人生の部分、自分でつくっていく人生の部分は増えている。したがって、生活情況と人生の経過の個人化とは、次のようなことを意味する。人生が「自己内省的」になっていることを。そして、社会的にあらかじめ与えられた人生が、自分で作っていく、そして作っていかなくてはならない人生へと変換されていることを。職業教育や職業や居住地や結婚相手や子どもの数等についての決定を、他の些末な決定とともに、行うことが可能なだけでなく、行わなくてはならなくもなった。
 
 ウルリッヒ・ベック 著 東 廉/伊藤美登里 訳 『危険社会』1998、法政大学出版局 P266-267より
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 求められているのは、自我をその中心にもち、自我に行為の機会をあたえ、このようにして、自分の人生行路に関して突然あらわれてきた形成および決定の可能性を有意味に分解して処理出来るような、積極的な日常行為モデルである。このことが意味するのは、自分自身が生き残るため、表面的には知的に装いつつ、自我と社会の関係をいわば逆にし、個人的な人生行路形成という目的のために個人と社会の関係を操作可能なものとして扱っているような自我中心的世界像が展開されなくてはならないということである。
 
 その結果、社会的・制度的に作られた危険や矛盾を主観化し個人化する水門が開かれる。個々人にとって、個々人の運命を決定する制度情況は、もはやたんに自分にふりかかる出来事や事情であるだけではなく、少なくとも自分自身が行った決定の帰結でもある。このような事態は、個々人を軌道から外れさせる典型的な出来事の性格が、ひそかに変化したことによっても促進される。個々人が遭遇するものは、以前はむしろ「運命的な情況」であった。すなわち、神や自然の名のもとに送り込まれるもの、例えば、戦争や自然災害や配偶者の死であった。要するに、それが起こったことに対して個々人が何の責任ももたないような出来事であった。それに対して、今日支配的なのはむしろ、試験に不合格になることから失業や離婚に至るまで、「個人的な失敗」とでも言うような出来事である。それゆえ個人化した社会においては、危険が、純粋に量的に見て、増大するだけでなく、質的に新しい形態の個人的な危険が登場する。その上、やっかいなことに、新しい形態の「責任の配分の仕方」が生じてくる。人生を自分で計画し自分で作り上げよ、というこのような圧力から、遅かれ早かれ、職業教育や福祉やセラピーや政策に対する新しい要求も出てくる。
 
 ウルリッヒ・ベック 著 東 廉/伊藤美登里 訳 『危険社会』1998、法政大学出版局 P268-269より
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 大体青年が自らの力を過信するに至れば、彼らが攻撃している勢力者たちともはや区別がつかなくなるではないか。彼らが真に必要とするものは、それによって自らの限界を知ることができる力試しである。しかし今日の社会で誰がその機会を青年に与えられるのであろうか。誰が彼らにとって父親となり、権威と秩序の意味を新たに説くことができるのであろうか。見渡したところ、大学教授にも、政治家にも、思想家にも、宗教家にもいない。この点で現代はまさに絶望的である。事実は一握りの青年たちだけがアナーキーなのではなく、時代全体の精神がアナーキーなのである。であるとすると現代の青年はいつ果てるともわからぬ力試しに、まだ当分は明け暮れねばならぬのではなかろうか。
 
 土居健郎 『「甘え」の構造』 弘文堂、1971. P241より抜粋
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 【エディプス期の両親と子どもの共謀(*)】
 
 男根-エディプス期の葛藤をいかに克服するかは、両親の態度と密接な関係がある。成長するに従って、子どもは異性の親との愛情関係を保っておくために、同性の親を排除したいというエディプス要求を持つようになり、特にその要求は思春期にはより現実的なものになる。このような要求は、両親にとっても葛藤になり、そのために子どもはエディプス・コンプレックスが非常に克服しにくくなる。母親は、男児の性的要求に心ひかれるように感じ、それを楽しむために、かえって助長する事がある。無意識的に魅惑的に母親は男児の期待に応じながら、次には彼をそっけなく拒否してしまい、息子を叱り、彼を失望させる。このような首尾一貫しない、変化しやすい態度のために、息子が自分の男性としての自己価値感を傷つけられる事無く性の対象としての母親を放棄するのは難しい。
 
 父親は息子と両価的な関係にある場合が多い。息子にとっては、母親に押さえつけられている父親も、またあまりにも強力で優れている父親も病因になる。つまり、母親に押さえつけられている父親には簡単に男児が勝つことができ、そのために男児は罪悪感を感じる。そして、あまりに優れた父親は、男児が父親と同一視できず、そのために、あるいは同性愛に陥ってしまう場合がある。しかし、男児だけが一方的に父親と張り合うのではなく、父親もまた男児と張り合う。父親は具体的に息子から脅かされ、押さえつけられているように感じることがある。父親が労働者で、息子が学生の場合、父親は息子に誇りを感じると同時に息子を妬んでいる場合が多い。この妬みは、息子を神格化してしまう母親によって、ますます煽りたてられる。母親にとっても全く同様に、成長してくる娘が自分より魅力的で父親が非常に娘に惚れ込んでいる場合に、ひどい葛藤を引き起こす。一方、娘の方では自分が父親の側で、母親を排除してしまう可能性がある場合には、罪悪感を感じる。
 
 以上述べたような事のために、エディプス・コンプレックスは両親と子どもの間での正にパートナー葛藤、つまり共謀という意味での神経症的な共演となり得る。この葛藤は、子ども時代から成年に達するまでに克服されない事が多い。娘は父親と結びついたまま、息子は母親から解放されないままでいる。息子は、自分自身の結婚生活の中でも母親に対して距離を置くことができず、結婚生活の中へ母親を連れ込んできてしまう。近親相姦願望とその不安は両親の側でも子どもと同じくらい強い。父親は娘の恋人にやきもちをやくか、あるいは成功した息子から威勢を奪われたように感じる。母親はしばしば嫁にやきもちをやき、嫁の座から彼女を引き離し、息子の結婚生活を破壊しようとする。このような世代間の緊張関係は、家族内での危機以外に、例えば、職場においても人間関係の危機が(基本的に未解決のエディプス的な両親と子どもの共謀によって)生じる場合が少なくない。
 
 (*)共謀:本書では「共犯関係」みたいな意味。
 ユルク・ヴィリィ著 中野良平 訳『夫婦関係の精神分析』、1985、法政大学出版局、P176-177より抜粋
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 人間生活の一見逆説的に見えるところは、各個人は、無防備の赤裸で生まれ、長い幼児期的依存性をもっているにもかかわらず、他方で、自分自身の環境をつくり出す力を、普遍的に備えているということだろう。従って、新生児の弱さは、相対的な意味に解さなければならない。新生児は、確かに物理的環境を支配する何物をも持ってはいないが、その表情や反応で成人の注意をひき、自分の欲求を満たさせ、新生児の健全な成長を、見守る人の関心をひきおこさせ、また、新生児の面倒をみることによって、積極的な養育熱を更に刺激する。ここで私は、わざわざ、注意とか、関心とか、養育とかの用語を使ったが、これは別に文学的効果をねらったのではなく、生命体一般のもつ、また、特に人間生活体のもつ基本的事実を強調したいためである。すなわち、新生児の脆弱さ、欲求の塊りのような弱々しさそれ自体が、力を持っているということである。赤ん坊としての無防備さ、それ自体が、自分の母を意のままにすることができ、その母を護る家族をもち、また、その家族を護る社会をもち、養育の仕方に一貫した文化的な色合いをつける伝統をもっている。そして、これらすべてが、幼児が人間的に成長発達するために必要なものである。幼児が、自己の能力を一歩一歩発揮し、一連の発達上の危機において、それらを統合していくために、あたかも、第二の子宮ともいうべき外的な健全さと持続性とを、幼児をとりかこむ環境は用意しなければならない。
 
 E.エリクソン 著 鑪 幹八郎 訳 『洞察と責任』1971、誠信書房 108-109より
 
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 転移という現象は、現実的な社会的関係の中でもしばしば見受けられます。たとえば、会社の上司と部下との間で、部下が上司に職業的役割関係をこえて、父親のように慕うという現象があります。これも転移と言えます。もっと言えば、現在のわれわれの人間関係すべてに、転移は反映しているわけです。医療関係ではとくに、こういう現象は起こりやすいのです。というのは、苦痛から救ってもらうために患者が医者にかかるという状況で、患者は大変無力な存在となり、医者に対して魔術的期待をもったり、被害的不安をもったりという幼児的反応を起こしがちです。こうした患者の幼児的反応は、時に治療促進的に働くこともあれば、医者がそれにまきこまれてトラブルの種になることもあります。以前経験した例ですが、三十代の既婚女性の患者が、身体の病気で内科医に診察を受けていたところ、その内科医に恋愛感情をもつようになり、ある相談をもちかけたわけです。そうとは知らぬ内科医は――一見、その患者は、しっかりしているように見えるのですが――彼女の依頼を受けて、喫茶店で会ってしまった。ところが、そのことを契機に、彼女は内科医が自分を愛しているという被愛妄想をもってしまったのです。こうした例はよくあります。
 
小此木啓吾ほか『精神分析セミナー 2巻 精神分析の治療機序』岩崎学術出版社、1982、P57-58
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 潜伏期が近づくにつれて、正常に発達した子どもは、直接攻撃によって人を「ものに」しようとする欲求や、早く父や母になりたい願望を忘れてしまう。いやむしろ「昇華」してしまう(つまり、もっと役に立つ追求や認められた目標に、それらの欲求や願望を向け換えるのである)。彼は今や「物を生産すること」producting things によって認められることを学ぶ。彼は生産性を発展させる。すなわち、彼は道具の世界の無機的な法則に自分自身を適応させようとする。彼は生産的な状況に熱心に没頭する一生産単位となることができるようになる。そして生産的な状況を完成することが、自分特有な欲動や個人的失意に由来する気まぐれな願望に、次第にとって代わる目標になる。かつて彼は上手く歩くために、また上手に物を投げるためにたゆまない努力を払ったが、今や彼は、物事をうまくやりたいと願う。彼は不断の注意と長続きする忍耐によって、「仕事を完成させる」喜びを身につける。
 
 この段階での危険は、「不全感」と「劣等感」inadequacy and inferiority の発達である。それらは、この段階に先行する段階での葛藤が十分解決されないためにひきおこされる場合がある。つまり彼は、知識よりもまだマミーを必要としている。学校でちゃんとした子どもでいるよりも、まだ家で赤ん坊でいたい。自分を父親と比較し、この比較は、解剖学的な劣等感とともに、罪悪感をひきおこす。あるいはまた家庭生活(小さな家庭)が、学校生活のための準備をしていない場合もあるし、すでにうまくやることを学んできたものを、教師が全然評価しないという形で、学校生活がより早期の段階で彼が獲得した成功への約束を維持することに失敗する場合もある。さらにまたこの時には今まで眠っていて、もし今刺激が与えられなければ、遅れて発達することになるか、さもなくければ決して発達しないようなやり方で彼が人にぬきんでる可能性もないとはいえない。
 
 E.エリクソン 著 小此木啓吾 訳編 『自我同一性 アイデンティティとライフサイクル』1973、誠信書房 P106-107
 
 ※参考:最後の一文「もし今刺激が~」は、訳がわかりにくい。ちなみに原著では「And then, again,he may be potentially able to excel in ways which are dormant and which, if not evoked now, may develop late or never.」となっている。
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 研究者が特定の精神疾患を引き起こすと考えられる単一の遺伝子異常を探していたのはそれほど遠い昔のことではない。このモデルは、ハンチントン病や嚢胞性線維症といった疾患の確定に成功してきた。それではなぜ、異常な遺伝子が統合失調症や鬱病を引き起こさないのであろうか?数十年にわたる研究と新しい科学の発展からすれば、そのパラダイムはあまりにも単純すぎるようである。
 
 なぜ精神疾患の遺伝子はこれほど発見が困難なのか。答えは、遺伝子は精神疾患をコードしないからである。精神疾患は症候群に包括される混合症状として定義されることから、これを信じることは困難ではないであろう。これらの症候群はDSMやICDといった精神疾患の疾病分類学を作成している委員会からの合意声明である。すなわち、精神疾患は病気ではないのである。
 (中略)
 さて、遺伝子が精神疾患も行動もコードしていないならば何をコードしているのか?答えは、遺伝子はタンパク質をコードして、精神疾患においては遺伝的に変化したタンパク質により引き起こされたわずかな分子異常を個々の遺伝子がコードする、ということである。これには神経細胞の選択、移動、分化やシナプス形成といった神経発達を調節するタンパク質が含まれるであろう。また、酵素からのトランスポーター、シグナル伝達分子、シナプス可塑性機構、軸索や樹状突起のタンパク質輸送機構、そのほか多くのタンパク質も含まれるであろう。
 
 21世紀で最もありふれた謎の多い病気の多くは、もはや単一遺伝子からの大いなる生物学的貢献によって起こるとは考えられない。単一遺伝子異常は、既知の精神疾患のいかなるものを引き起こすにも不十分である。
 
 では遺伝子から精神疾患への経路とは何か?精神疾患は単一遺伝子や単一のわずかな遺伝子異常で引き起こされるのではなく、環境的ストレッサーと相互作用するいくつかの遺伝子からの小さな寄与が多く集まることにより引き起こされる、と仮定される。これは時には「複雑な遺伝学」とよばれるが、理由は明らかである。それは単純な優性や劣性遺伝ではなく、人を疾病へ偏らせるが引き起こすには至らない複雑な一連のリスクファクターである。
 
 この概念は統合失調症や双極性障害のような精神疾患だけでなく、高血圧や糖尿病にも当てはまる。このモデルでは、人は疾病ではなくリスクを受け継ぐのであり、十分なリスクとある環境下でそのリスクが発現するに十分な機会が併発する可能性がいくつかあり、これらの因子がすべて合わさり、転換点に到達し、疾病を発症する。
 
 仙波純一 ほか監訳『精神薬理学エッセンシャルズ 第三版』メディカル・サイエンス・インターナショナル、2010、P189-192より
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 本来、理論家の任務は現実と一挙に融合するのではなくて、一定の価値基準に照らして複雑多様な現実を方法的に整序するところにあり、したがって整序された認識はいかに完璧なものでも無限に複雑多様な現実をすっぽりと包みこむものでもなければ、いわんや現実の代用をするものではない。それはいわば、理論家みずからの責任において、現実から、いや現実の微細な一部から意識的にもぎとられてきたものである。したがって、理論家の眼は、一方厳密な抽象の操作に注がれながら、他方自己の対象の外辺に無限の広野をなし、その涯は薄明の中に消えていく現実に対するある“断念”と、操作の過程からこぼれ落ちてゆく素材に対する“いとおしみ”がそこに絶えず伴っている。この断念と残されたものへの感覚が自己の知的操作に対する厳しい倫理意識を培養し、さらにエネルギッシュに理論化を推し進めていこうとする衝動を喚び起こすのである。
 
 丸山真男『日本の思想』岩波新書434(青版)、1961 P60より
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 リフトンさんもおっしゃっていますけれども、われわれは「目的のない世紀末」を迎えています。テクノロジーも情報も飽和状態のこの社会では、活気付いているのはテクノロジーそのものと溢れかえるような情報の量だけであって、人間そのものや、人間が紡ぐ哲学や詩でもありません。人は先端技術の拡張と情報の海のなかで、そこから落伍してはならないと焦慮するのみです。テクノロジーも情報化社会も、人が人たることをもはや否定し、人とは機器の端末に存在する無機質ななにかとしか扱われていないようにすらみえます。
 
 テクノロジーの千年王国がいまや確立されかかっているように思います。そこでは技術発展の究極の目的を論じる情熱が無力化され、機器が人間に奉仕するのでなく、その逆の、じつは人が機器に奉仕しているのに、それが合理的であり、理性的であるという幻覚をあたえる、不可視の恐怖のシステムが形成されつつあります。人間にではなく機器のほうに理性を見て、理性的判断を機器の側にゆだねてしまう流れもあります。発展の目的を持たない無限発展社会というのでしょうか。そうした倒錯と狂気が日本には特に濃厚にあるような気がするわけです。
 
 辺見庸『不安の世紀から』角川文庫、1998、P53-54より抜粋
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 Aetas parentum peior avis tulit
 nos nequiores, mox daturos
 progeniem vitiosorem
 
 (祖父母に劣れる父母 
 さらに劣れるわれらを生めり、
 われら遠からずして
 より邪悪なる子孫を儲けん)
 
 ホラティウス 頒歌第三の六より
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 社会批評家としてのエリクソンは、技術に対して批判的だった。若い頃に受けた教育は西洋のかなりエリート主義の強いものだったが、後年の彼は、専門分化し効率を重視する高度技術社会の危険を警告している。高度技術社会の価値体系は、スー族やユーロク族をはじめ伝統的な文化で役立ってきた習俗を軽視した。技術面の効率を追求してきたアメリカという一つの組織[コーポレート・アメリカ]が生み出したのは、定まった仕事の枠を越えられず、人生の荒波や不規則な急変から切り離された近視眼的なイデオロギーの持ち主である専門家世代であった。オースティン・リッグズ・センターで出会った悩める若者たちの親の多くは、こうした専門家たちではなかったろうかと、エリクソンは憂慮したのだった。
 
 L.J.フリードマン『エリクソンの人生』新曜社、2003、下巻P519より抜粋

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