deepbluedragon はてなハイク市民 (銀 280日)

蒼龍

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今の時代というのは、一方でエビデンス・ベースと言って医療や教育や政策に経験的な証拠による根拠が求められる考え方が広まっているが、他方でポスト・トゥルースとしてフェイクニュースが当たり前に蔓延してしまう傾向にもある。一見、これらは真反対の傾向だが、それらが基づく人間の本質は同じである。つまり、人は自分に都合のいいように物事を信じるという傾向だ。今どき、精神分析やマルクス主義を科学的に正当化できると思うのは困難だ。つまり、(天才な)大学者による大理論をそれ自体で(正しいから)信じるという時代は20世紀で終わってしまった。大理論ほどちょっとした経験的証拠によって(その整合性が)崩れやすいがゆえに、信じることにはデメリットが多い。もはや個別に証拠に基づいて検証していく地道な道しかまともな方向はない。
しかし、そのような方法論的自然主義が求められるのも、(例えば確証バイアスなどによって)人が好き勝手に都合のいいように物事を信じがちな傾向を持っているからでもある。そして、その傾向が全面的に発揮された結果がポスト・トゥルースの時代でもある。ポスト・トゥルースの時代とは、ただ偽ニュースが蔓延する時代というよりも、人々にとって真偽の基準が曖昧になった結果として偽ニュースが蔓延するようになったのだ。そういう点ではポスト・トゥルースの時代とはポスト脱構築の時代でもある。有限なるこの世では確実さなど初めから不可能な故に伝統を受け入れる保守が失われ、自分が正しいと思っている都合のいい信念を守りたいがために都合のいい根拠のない言説を受け入れる素地が揃ってしまったのだ。
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要するに人工知能そのものにおいて、第二期ではまだ人間並みの知性が目指されていたが、現在の第三期では人間並みというリミッターが外れてしまったんだと思う。
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##### おまけ(オリジナル完全版)
たまたまある批判に気づいたので一応答えておきます。まず、ここで述べた特徴は第二期の(認知科学的な)ニューラルネットワーク研究一般にだいたい当てはまることであって、Nature論文だけに限定しては論じてません。第二は、ここで心理学データとの一致というのは必ずしも厳密に受け取る必要はなく、観察される心的な現象(行動)に似ている程度にゆるく捉えてもらって構いません(初期はデモンストレーション的な要素が強かったのでは…と推測)。私の見解に疑問のある人は、ここでリンクした2つ目の論文を読んで内容を確認してください。そっちのほうが正確です。実際に心理学的なデータと比較した研究もあります。
重要なのはそういう方向へと当時のニューラルネットワーク研究が流れたという事実です。そして、この点を押さえておかないと(リンクした1つ目の論文で既に指摘されているように、Back propagationが新規なものでない以上)第二期のブームが何故起こったのかを理解できません。大事なのは、現在から見てどうなのか?ではなく、歴史的な視点から見てどうなのか?の方だ。当時の研究者がどのような状況でどのような情報を持っていてどのような問題意識を持っていたのかを想像することをお勧めします。現在の基準で過去を測ってはいけない。
説教臭くなってすいません。これは今回の件に限らず前から気になっていたことなので、つい口が滑ってしまいました。もうこの件はこれで終わりだと思います。ここまで読んでくださった方、ありがとうございました!
m(_ _;)m
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はてなブックマークにコメントを久しぶりに書いた。てか、はてなブログのコメント欄が使いにくいので、半ば仕方なく。正直、はてなブログはなんか色々と使いづらい。
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久しぶりに専門書も売っている大きな書店に行った。認知科学関連については、デネットやホフスタッターの翻訳の新刊があったり、古典的な著作の文庫化がされたりと、認知科学にとっては状況は(一時期のを考えたら)そこそこだろう(でも、あっ!と思うような新刊は相変わらずない)。そこは今更あまり期待してないので気にもしてないが、なんだかなとも思うのが、未だに現代思想や理論社会学の残党による新刊が多く目立つということだ。人工知能だってブームと言われてる割には、一般書としてはビジネス寄りの実用書か、西垣通(本来の専門はメディア論のはず)のような現代思想の残党と同類みたいな思想書か、どっちかばっかりで、まともなのは新井紀子はじめごく少数じゃねぇのか?と疑いたくなる。結局見る目のないミーハーなやつばっかりだから、過去の延長の古臭い話か、ブームになってからの泥縄野郎か、どっちかにならざるを得ない。私だって今更になってコネクショニズムを始めとする人工知能の知識が再び役に立つ時が来ようとは予想もしなかったが、いざそうなってみると言論や出版の状況には不満ばかり感じる。私に言わせれば重要なのは、きちんとした問題意識を持った上で古びたものも含めて基礎知識をみっちりと身に着けてその上で新しい話についていけるようにすること。現在(問題意識)、過去(基礎知識)、未来(好奇心)のすべてが必要なのだ。
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既にブログの記事でも論じたTauber et al."Bayesian models of cognition revisited"だが、この論文のGeneral Discussionにある「鏡の国のアリス」からの引用(二箇所)を改めてきちんと読んでみたら、どう考えても(ブログの記事でも示唆した)彼らのしているベイジアンの合理的アプローチへの揶揄にあまりにぴったりだったので笑ってしまった。
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「俺が言葉を使うときは、それは俺が意味しようとすることしか意味しないんだよ」とハンプティダンプティはこちらを見下すように言った。
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「問題は、あなたがそんなに多くの違った意味を言葉に込められるのかどうかなのよ」とアリスは言った。
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実は鏡の国のアリスは子供の頃の愛読書だったので引用部分の文脈は分かるが、今回はそれはどうでもいい。要するに、合理的分析が込めたい意味をベイジアンという道具を通して勝手に込めているに過ぎないんじゃないか?という懸念の現れそのものでしかない。
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### 認知モデルとしてふさわしい基準は何か?
認知モデルは初期の古典的計算主義の時代からその批判を経て、現在の確率論(特にベイジアン)の時代に入った。だが、そのせいでむしろどうすれば何が認知モデルとしてふさわしいのかがよく分からなくなったという面はある。一時は脳イメージングのブームによって(認知科学的な事情を分かってない人の間では)還元主義がもてはやされたこともあったが、今は逆にその限界から計算論的神経科学が見直されたりもしている。身体化論者の中では反表象主義というほとんど認知モデルの否定みたいな見解の人もいるが、科学的な研究プログラムとしてはさっぱり広まっておらず先の見込みは薄い。さらに身体化論者の中にはすべてを感覚運動で統合できるという人もいるが、その大口にふさわしい妥当な理論を見たことは未だない。先の批判論文にも見受けられるが、認知モデルに生物学的な洞察を取り入れるべきだと言う人もいるが、それがどんなものなのかむしろこっちが教えてもらいたいぐらいだ(マーの計算論での古典的議論でも読み直してください)。特に高次認知の研究では、古典的計算主義の時代にはまだしも直観的に理解しやすい論理や確率で認知モデルを構築していたのでまだ問題は少なかったが、ベイジアンによる確率論となると解釈が難しくてどうすれば認知モデルとしてふさわしいのか自体がよく分からない。例えば、脳がマルコフ連鎖モンテカルロ法みたいなサンプリングをしているという見解もあるが、どうすればそれが検証されたことになるかのも私にはよく分からない。正直なところ最近は、もしかして高次認知に認知モデルが本当に必要かさえ疑ってしまう。
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日本の奇妙なところは、一方で自己責任論で騒ぐ人たちは多いのに、政府による民間への介入を批判するようなリバタリアンな見解では大して騒がれないことである。要するに、単なる感情論で騒いでるだけであって、一貫した思想になど全く基づいていない事だ。まぁ、ネットで馬鹿な無知が目立ち易いのは今に始まった話でもないが…
日本がこんなアホらしい事態になる原因のひとつは、そもそも社会の制度やしくみについてその理由や議論をまともに教えられたことも考えたこともない人達で日本がいっぱいだからだ。日本では権力分立のような基本的な議論さえ適切な場面でさっぱり言及されないことには驚くしかない。まぁ、もし本気でそれを知って考えたら、例えば日本の刑事司法がとんでもない前提に立った頭のおかしい制度であるといったもう頭を抱え込むしかない現実を知ることになるので都合が悪いのだろう。
自己責任論で騒ぐような事態になったときは、それを頭から否定するのでなく、なぜなのかをきちんと説明するべきだが、そういうことはもっと広く行われる必要がある。まぁ、(政府や政府家にだけでなく)マスメディアや教育機関にとっても都合の悪い議論も多いかもしれないが……
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記事の結論にもともと書いてた文章
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### 最後に本当の戯言
ベイジアンの隆盛やニューラルネットワークの発展は、統計的な技術の重要性が上がっていると同時に、そもそもこれまでの平均と線形を中心とした統計観からの転換をも示している。これまでの時代は(技術的に扱いやすい)平均性への反発として多様性が称賛されたりもしたが、そもそも統計的な技術自体が多様性を扱えるようになりつつある。その点では、トランプ大統領のような反動的な政治家の隆盛も、こうした時代の転換期だから起こっているのかもしれない。しかし、そこで起こっている混乱というのは実は技術の発展によって案外と解決可能なものかもしれない。だが、本当の問題はその先にあるような気もするのだが、(技術系の人は大抵は楽天的だし、人文社会系の人は科学や技術に不勉強だしで)そうした議論をできる人が少ないことには危惧を抱いている。
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話がでかくなってきてどう話を締めればいいか分からなくなって削除
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Leeの論文を見つける前に書いた文章
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ここから先はある程度の知識がないと分かりにくいことを書くので、自信のない人はこの段落は読み飛ばしてください。認知モデルとはないか?というは話は「高次認知研究におけるベイズ的アプローチ」の終わりにも触れられいるが、これは真面目に考えると面倒な話なのでそこは避けます。そこでここではベイズ統計モデリングについて、私が個人的に考えたことに触れます。ベイズ統計モデリングとは何か?を説明するには私はまだ勉強不足なので避けますが、「心理学におけるベイズ統計モデリング」の終わりでも触れられているが、ベイズ統計モデリングは構造方程式と似ているとされているが、そう考えるとベイズ統計モデリングとは構造方程式の改良版として捉えることもできるかもしれない。
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この後で「社会科学における因果推論の可能性」によって構造方程式による因果推論に触れて、Goldthopeによる因果生成メカニズムからHedstromの分析社会学へと進み、それが認知モデルと関わりを持っている…と議論を進めようとしたが、ベイズ統計モデリングと構造方程式の関係がよく分かっていないことに気づいて、この方向性は諦めた。だって、この流れだとベイズ統計モデリングでも因果推論できるかも…となってしまうが、そんな事実は調べても出てこない。分析社会学については記事を書く計画が元からあった(認知科学とは全く無関係でもない)が、やっと消化できると思ったらやっぱり無理だった。
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もともと記事に入っていた文章
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とりあえずは軽いところから触れよう。まず、一方のアプローチに合理的(rational)と名付けているが、これは一般的にTenenbaumらの研究を指して言われることも多いのでややこしい。なので、以下では最適(optical)の方の用語だけを使うことにするが、実のところそれにしても違和感がある。
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Tenenbaumらの論文にopticalって言葉入ってるじゃん…で削除
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例えば、視線を対象に合わせる方法には、すべてのケースに妥当する全称命題の推論が含まれている。これまでの関連する経験が「大前提」となり、最新の知覚が「小前提」となり、当該の場所に見る対象が存在しているという「結論」が下されている、とヘルムホルツは言う(NE,360)。このように現在の感覚と過去の経験を照合して、現在の外界の状態を推定するところに無意識的な推論があるという。
<<
福田覚「ゲーテとヘルムホルツ」p.64より引用

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クラークやフリストンらのフリーエネルギー原理の関連論文は読んでいるけれど、いまいちピンと来ない。その原因はなによりactive inferenceというキーワードの意味が曖昧で良く分からない。だんだんアフォーダンスやオートポイエーシスと同じ曖昧派の仲間じゃないかという疑惑が湧いてきた。フリストンの研究の流れは(元々脳イメージング研究に携わっていたが)機能局在論を疑う認知存在論から感覚運動的統合を提唱し、さらに予測符号化を通ってフリーエネルギー原理へ至っている。こうした流れを見るとアンディ・クラークがフリストンを好むのも分かるのだが、どうも彼らの理論は、明確に数理化された予測符号化と比べるとものすごく曖昧で、もはや科学だか哲学だか私にはよく分からない。
これに比べたら、まだあまり知られていないけれど予測符号化と表象主義についての議論の方が科学的にも哲学的にもずっと面白い。ただ個人的には面白いと思っているけれど、まだ進行中の議論感が強いので紹介はしにくい。最大の問題は、生成モデルというのがキーワードになるのだけれど、記事に書くにはまだ理解が足りない。生成モデルは基本的に数理的な用語なので曖昧さはないが、いざ説明するとなると自信が持てない。簡単に言うと、生成モデルが(構造的)表象である…と言い切っていいのかどうか確信が持てない。もっと遠回りに説明したほうがいいのかもしれないし、まだよく分かっていない。ここを通過してしまえば、話は一気に広がって面白くなるのだが、まだその手前がもやもやとしてまだ曇っている。他にネタがないわけじゃない(例えば家畜動物の認知研究)けど、どうも書こうとする気が起きない。まぁ、別にブログもここもただの趣味なので無理にやる必要は全くないのだが。
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ブログは長らくやっているが、認知科学の本当の魅力的だと私が思っている部分は、他の人には説明するには地味で分かりにくいのでブログでもほとんど書いたことがない。最も地味な話は心理学実験の洗練化(例えば、心の理論を調べ方とか、ピアジェの理論への反駁も面白い)だが、これは下手すると日本の心理学者でさえよく分かってない人が多いかもしれないので、素人向けに何か書く以前の段階の以前でただただ頭が痛くなる。しかし、もっと認知科学の基礎的な部分でさえ説明するのはとても面倒くさい。認知革命の話だって、まずは行動主義の説明をしないといけないが、普通の人はそもそも行動主義を全く知らないのでまずはその科学的意義から説明する必要がある。行動主義の意義が分からないと科学的心理学そのものが理解できないし、なぜ認知革命が起こったのかも分からない。認知革命中でも、イメージ命題論争があるけれど、これまた説明が困難。心的表象が認められたこと自体が革命の成果だが、それがどのような形態かが問題だった。しかも心的回転は認知革命の説明でもよく挙げられる心理学実験な上に、脳イメージング研究によって論争に大展開が生じたこともあり、重要性という点では争う余地はない。その脳イメージング研究そのものについてもその意義を正しく理解するには認知科学の展開を知っている必要がある。脳の機能については神経心理学の成果も既にあったし、侵入的な認知神経科学だって既にあった。生きている脳を調べられることがいかなる意義を持っていたのかは、その表面的なブームからは伺うことはとてもできなかった。進化心理学のどこが衝撃的だったのか(特に三枚カード問題の解釈)もどこまで正しく理解されてるのかも正直怪しい。
私が(当初から)認知科学の魅力だと感じている科学的な側面は説明できたと思えた試しは未だにない。
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現代思想的な思弁的実在論と認知科学の主流に対抗する反表象主義とに一見すると全く共通点はないように見える。しかし、ポスト脱構築の時代における絶対的領域の確保という点では似ている所がある。思弁的実在論とはいかなる経験的領域によっても取り乱されない絶対領域を確保しようとする試みであると言える、たとえそこがいかなる生も拒む絶滅領域であろうと構わないかのような…。こうした思弁的実在論の不毛さは反表象主義とは何の接点もないかに思える。しかし、私達と世界との関わりをいかなる形でも(表象にさえも)邪魔されない直接性を認めている点では、反表象主義は別の意味で絶対領域の確保を目指しているようにも見える。そしてこうした反表象主義の側面は現代思想的な新しい唯物論とも共通点を持っている。反世界と直世界とで方向性は真反対だが、絶対的な領域を確保しておきたいという動機は似ている。だが、いかなる経験にも抗することや(進化心理学とは対照的に)生態学的に環境とべったりくっついていることの想定は、有限なる人間には危険なものでしかない。結局の所、ヘーゲルをネガティブに読む思弁的実在論(否定神学的!)かポジティブに読む反表象主義(絶対知?)かの違いでしかないように見える。歴史的に遡ると、思弁的実在論はフランス現代思想に遡れるが、反表象主義についてはその流れがひと繋がりでないせいもあってその歴史的流れが描かれたことはない。とはいえ、どちらも実はハイデガーに共通の源泉があるのは面白い。
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またまたネットで見つけた、認知心理学の名称者として有名な心理学者ナイサーについての日本の学者の書いた追悼文を読んだ。自分の知らない事実が書いてあったりして面白かったのだが、あらためて認知科学の歴史って未だに知られてないんだな〜と思った。社会生物学の歴史には「社会生物学論争史」という名著があるのに、認知科学の歴史にはあまりめぼしいものがない。あえて言うとハーワード・ガードナーの本があったけど、もういい加減に古すぎる。認知科学の盛んな英語圏でも事情が変わらないのだが、おそらくその理由はそもそも認知科学の歴史があまりに錯綜しているせいだろう。ナイサーへの追悼文を読んで、改めて認知科学(特に認知心理学)の誕生の一端が意味の復興にあったのだと思いだした。当時の心理学にあったのは、一方にあるのが科学的ではあるが意味のかけらもない行動主義で、他方では意味に溢れたマズローの人間性心理学だった中で、意味を扱う科学が生み出されたのだ。ジョージ・ミラーのマジカルナンバー論文も、記憶容量が7であることに注目されがちで、それが反駁された(?)とかで喜んでた最近の日本の心理学者がいて冷たい目で見ていたが、本当に大事なのは記憶にチャンクという意味の単位を提唱したことなのだ。それ以前は記憶研究は無意味綴りを使っていたのとは対照的だったのだ。他に当時の記憶研究で重要なのだとバートレットとかもいる。ただ、その後の流れでこうした意味の復興の側面が忘れ去られていった部分は否めず、後々に認知革命の立役者の一人であるジェローム・ブルーナーが「Acts of meaning」という本を書くようになるのもこうした流れの中で起きたのだ。この話を本気で書くと相当に長くならざるえないが、これでさえ認知科学の歴史における一流れでしかないのがややこしい。なんで認知科学史の研究者がろくにいないのか謎でしかない!
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言語進化については本気で書くのは面倒なのでここで軽く書いてスッキリする。言語進化の有名な説としては、コミュニケーション説・思考説・歌起源説などがある。これらは順に適応説・突然変異説・性淘汰説と結びついている。コミュニケーション説については人以外の動物も情報伝達はしているし、そもそもコミュニケーションだけではなぜこんなに複雑に分節化した言語が生じたのかは説明できない。歌起源説は性淘汰説と結びつけやすいが、孔雀の例を見ても分かるように性淘汰で生じた形態は性差が大きく出るものだが、言語能力には性差が少しはあるが、性淘汰で生じたというには能力の差が小さすぎる。結局現時点で説得力の点で残るのはミニマリスト(チョムスキー派)による突然変異説ぐらいだな〜
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ラジオでも聞いたしネット記事でも見たけど、人工知能が人の余暇を増やすという見解があるらしい。人工知能が人の職を奪うの次は、今度は人の余暇を増やすだと…!人工知能が仕事の効率を上げるのは確かかもしれないが、人工知能に限らず技術による効率の上昇は必ずしも余暇を増やすわけではない。現に昔と今を比較する手もあるが、単に市場原理を見るだけでも良い。技術による効率の上昇によって、人の余暇が増えるのか人の労働の価値が下がる(よって余暇は増えない)のかは市場における他の条件との兼ね合いで決まるのであって、一意に定まる訳ではない。なんで脅威論の次はユートピア説と次々極端な説が出るかね〜もうちょっと頭使ってくれ!
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予測符号化と観念論について、デカルト主義からカント主義へという形で記事を書こうと予定していたのだが、いろいろと文献を読んで調べているうちに、命題的構造とは異なるもう一つの(alternativeな)表象主義を中心にして思ったよりも話が広がってきていって、とても現段階では記事を書けそうになくなってしまった。これに比べたらenactivistの(全面的)反表象主義についてはいくらでも悪口を書ける、てか前回ここに書いたのも実質そういうの、だがこんな研究プログラムとして見込みのない思想は放っておいても消え去るだけだから付き合うのは虚しいだけだ。古典的計算主義は既に十分に批判されたし、表象主義であっても力学的(ダイナミカル)な考え方は反映できる(Van Gelderでさえそこまで強い反表象主義ではない)し、(認知科学はメカニズム的説明を目指しているが)反表象主義のメカニズム的説明への強烈な反発もイマイチ理解できない。身体化論者でもClarkは(昔から)そこまでの強い反表象主義ではないように、身体化にとっても反表象主義は必須ではない。それどころかenactivismにとっても、反表象主義には異様にこだわるのに、ヴァレラもしていた進化論についての話はほとんどしないとか、なんか偏ってないか?……と反表象主義の悪口はいくらでも書ける!
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実は一時期マルクス主義の哲学について勉強したことがあるのだが、4E認知の急進派であるenactivism(面倒なのでエナクション派)はどことなくマルクス主義の哲学に似ている。マルクス主義の哲学と言っても、初期マルクスの影響からのヒューマニズムやアルチュセールによる構造主義などが流行ったこともあったが、これらはあくまで派生的な流行であり、主流の考え方はそうではない。
(隆盛当時の)主流のマルクス主義の哲学的特徴は二つある。まずはへーゲル批判から来た観念論批判。要するに「世界を解釈するのではなく世界を変える」のスローガンのもとでヘーゲル的観念論が批判されていた。しかしどうも観念論を議論によって批判すると言うより、頭から観念論は間違っていると否定する傾向が強かった(イデオロギー!)。エナクション派も観念論を批判しているが、その内実は観念論を頭から否定しているだけで、批判のための有効な議論は特に見られない。こうした他人を説得する気のない盲目的な決めつけは頭が固いようにしか見えない。実際にマルクス主義はこうした方面で後世に残る遺産を何も残していない。おそらくこのままでは二の舞を踏むことになるだろう。
もう一つの特徴はマルクスの労働説から来る活動至上主義である。これは現在では活動理論として残っているが、この源はロシア時代のマルクス主義者レオンチェフだ。エナクション派の反表象主義(場合によっては反計算主義)はその心的なものの身体的活動への還元から来ている。最近の私はこれをダイナミカルな行動主義と呼んでいる(そして行動主義の欠点をすべて受け継いでいる)。実際にマルクス主義ではパブロフの条件づけが教条的に重視されたことがある。そこにおける身体や環境の重視はとても(マルクス主義的な意味で)唯物論的でもある。この方向性は近年に現れた思想である新しい唯物論とも共有する注目すべき点ではあるが、反表象主義や反計算主義のような強い前... (続きを読む)
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