大井玄『呆けたカントに「理性」はあるか」

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yanoz

大井玄『呆けたカントに「理性」はあるか」

認知症高齢者に、胃ろうを希望するか質問すると、嫌ですね、と答えるという。

その判断には合理性があって、尊重するのが倫理的だ、という主張が、この本の軸となっている。

それは良いとして、カントやデカルトを引き合いに出しつつ、身体を離れた概念的な思考にのみ合理性を認める立場を批判して、比較認知科学をふまえつつ、進化の歴史を背景に、情動的に働く身体的な判断に合理性があると主張する議論は、理性という概念の再考としてはそれほど精緻なものではなく、20世紀の戦争犯罪を論拠に、身体的な情動を軽視した理性の暴走を語るのは、それ自体、安易な印象操作と言うべきかとおもう。

理性という概念の読み替えがなければ、認知症高齢者の判断に合理性があると認める社会は実現できない、という見通しからこのように書かれているのだろうけど、戦略として、理性を読み替えるというのが、唯一で不可避な道ではないだろうと思うし、認知症高齢者の判断を尊重する姿勢を確立するのに、デカルトやカントの理性概念を退ける必要は必ずしもないだろうと思う。

著者自身が、認知症高齢者を含めた終末期医療に携わってきた医師。

その立場から書かれているので、胃ろうをめぐる高齢者医療の現場の話には、心を打つものがあり、晩年のカントについての伝記的な記述から認知症だったのだろうと推察する結びにも、臨床家ならではの説得力があって、読み応えあった。


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