小林秀雄

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matsuiism

小林秀雄

大塚英志『偽史としての民俗学――柳田國男と異端の思想』(2007年)を読んでいたら、「実は小林秀雄は戦時下民族学の入門書を刊行している」という記述があって吃驚した。
正確にはこれはフリッツ・グレーブナー「人類学研究法」他の翻訳であり、昭和十五年に『民族学研究法』(十字屋書店)として刊行されたものである。調べてみると、Amazonにも載っている。

小林自身の言葉によると、これは、「偶然自分が立教大学史学科の民族学を講義せねばならない事情に立ち至ったので、この書を参考にすることとなり、いつとなく其全文を翻訳して終つたのである」が、直接グレーブナー本人と日本訳について約束していた岡正雄の承認を得て、公刊したとのこと。

角川文庫の年譜を見ると、この本のことには触れられていないが、小林は「この年、「文芸銃後運動」に加わり、国内および朝鮮、満州で「事変の新しさ」「文学と自分」を講演」している。
フリッツ・グレーブナー(1877-1934)はドイツの民族学者で、「文明圏」説の提唱者として知られるらしい。
大塚氏によると、「この時期、岡はナチスドイツ支配下のオーストリアに留学しており、国策科学としての民俗学・民族学を見聞して」いたという。

ちなみに、江上波夫の「騎馬民族説」は、1948年に岡正雄や石田英一郎らと「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」というテーマで座談会をもったのがきっかけで世に問われることになるが、岡はウィーン大学留学中に博士論文「古日本の文化層」(1933年)ですでにそういうアイデアを出していたらしい。というか、江上自身が言うように、その原型の一つは大正期に喜田貞吉が発表した「日鮮同祖論」にあった。
これについて、大塚氏は、「騎馬民族説は、アジアあるいは太平洋という大東亜共栄圏に日本人の起源を求める正史派と偽史派の「共犯」としてある「起源論」の系譜の上にあるのだ」と指摘している。
tekehiko

小林秀雄

 様々な種類の正しいと信じられた思想があり、その中で最上と判定するものを選ぶことなどが問題なのではない。凡そ正しく考えるという人間の能力自体の絶対的な価値の救済とか、回復とかが目指されている。そういう希いが中庸と名付けられているのである。(中略)
 過不及のない、変わらぬ精神の尺度を、人は持たねばならない、というようなことを孔子は言っているのではない。いつも過不及があり、いつも変わっている現実に即して、自在に誤たず判断する精神の活動を言っているのだ。そういう生活の智慧は、君子の特権ではない。誠意と努力によっとさえあれば、誰にでも一様に開かれている道だ。ただ、この智慧の深さだけが問題なのである。
( 新潮文庫『Xへの手紙・私小説論』ー 中庸 p252〜p.253 )
octavarium

小林秀雄

死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな。
(茂木健一郎・南直哉「人は死ぬから生きられる」、P.76)
umedamochio

小林秀雄

彫刻の何んたるかを始めて僕に教えてくれたのはミケランジェロだ。そう言ったところで誰も信用してくれまい。構わない。他人が信用してくれない言葉を、人は、やがて自分でも信用しなくなる、僕には、そちらの方が恐ろしい。(ゴッホの手紙、新潮全作品20、p16)
umedamochio

小林秀雄

感動は心に止まって消えようとせず、而もその実在を信ずる為には、書くという一種の労働がどうしても必要の様に思われてならない。書けない感動などというものは、皆嘘である。ただ逆上したに過ぎない、そんな風に思い込んで了って、どうにもならない。(ゴッホの手紙、新潮全作品20、p12-13)
yoshi41101

小林秀雄

人間は万人流に理解するが、自己流にしか決して信じない。「マキアヴェリについて」
yoshi41101

小林秀雄

「哲学の私情は立国の公道」という明察を保持していなければ、公道は公認の美徳と化して人々を酔わせるか或は習慣的義務と化して人々を引き回すのである。p134「福沢諭吉」(「考えるヒント」)
yoshi41101

小林秀雄

教養は、社会の通念に、だらしなく屈するものだが、実社会で訓練された生活的智慧は、社会の通念に、殊更反抗はしないが、これに対するしっかりした疑念は秘めているものだ。変り者はエゴイストではない。社会の通念と変った言動を持つだけだ。世人がこれを許すのは、教養や観念によってではない、附き合いによってである。附き合ってみて、世人は知るのだ。自己に忠実に生きている人間を軽蔑する理由が何処にあるのか、と。そこで、世人は、体裁上、変り者という微妙な言葉を発明したのである。p61「歴史」(「考えるヒント」)
yoshi41101

小林秀雄

誰も、変り者になろうとしてなれるものではないし、変り者振ったところで、世間は、直ぐそんな男を見破ってしまう。つまり、世間は、止むを得ず変り者であるような変り者しか決して許さない。p61「歴史」(「考えるヒント」)
yoshi41101

小林秀雄

だから、私達はひそかにひとり悩むのだ。それも、悩むとは、自分を審くものは自分だという厄介な意識そのものだからだ。公然と悩む事の出来る者は、偽善者だけであろう。良心の持つ内的な一種の感受性を、孟子は「心の官」と呼んだ。これが、生きるという根柢的な理由と結ばれているなら、これを悪と考えるわけには行かないので、彼は「性善」の考えに達したのである。p59「良心」(「考えるヒント」)
yoshi41101

小林秀雄

考えるとは、合理的に考えることだ。どうしてそんな馬鹿気た事が言いたいかというと、現代の合理主義的風潮に乗じて、物を考える人々の考え方を観察していると、どうやら、能率的に考える事が、合理的に考える事だと思い違いしているように思われるからだ。当人は考えている積りだが、実は考える手間を省いている。そんな光景が至る処に見える。物を考えるとは、物を掴んだら離さぬという事だ。画家が、モデルを掴んだら得心の行くまで離さぬというのと同じ事だ。だから、考えれば考えるほどわからなくなるとうのも、物を合理的に究めようとする人には、極めて正常な事である。だが、これは、能率的に考えている人には異常な事だろう。p56「良心」(「考えるヒント」)
yoshi41101

小林秀雄

常識の働きが貴いのは、刻々新たに、微妙に動く対象に則してまるで行動するように考えているところにある。そういう形の考え方の届く射程は、ほんの私達の私生活の私事を出ないように思われる。事が公になって、一とたび、社会を批判し、政治を論じ、文化を語るとなると、同じ人間の人相が一変し、忽ち、計算機に酷似してくるのは、どうした事であろうか。p17「常識」(「考えるヒント」)
ewesthill

小林秀雄

人間から出て来て文章となつたものを、再び元の人間に返す事、読書の技術といふものも、其処以外にはない。(読売新聞4/14「五郎ワールド」にて引用)

araimeika0910

小林秀雄

 小林は人間というものについて比較的老成した分析力を持っているので、いつも議論を無理にもお得意な方へひきずりこんで管をまき、青い連中をパッパッと煙にまいてしまう。(中略)要するにちっとばかり見当の狂った頭脳というものが、社会生活の上でどの程度の催眠術的効果をあげられるかということを研究するにはうってつけの材料といってよろしい。
   ――杉山平助(氷川烈)「文芸批評家群像」
topo-gigio

小林秀雄

この主題と無関係な色彩の調和こそ、画家の思想の精髄なのである。(『近代絵画』)
topo-gigio

小林秀雄

近代絵画の運動とは、根本のところから言えば、画家が、扱う主題の権威或は、強制から逃れて、いかにして絵画の自主性或は独立性を創り出そうかという烈しい工夫の歴史を言うのである。(『近代絵画』)
yaraicho
tomomi_keep

小林秀雄


確かなものは覚え込んだものにはない、強いられたものにある。
強いられたものが、覚え込んだ希望に 君がどれ程堪えられるかを
教えてくれるのだ

「新人Xへ」 p.215
tomomi_keep

小林秀雄


独創は本来、珍奇なものでも、華やかなものでもない
心を傾けて自分の資質が表現できれば、
いつも独創的表現になるのである。    p.142


どうか、柔軟な心という言葉を誤解してくれないように。
これは、確固たる意志と決して抵触するものじゃない。 p.144

「文芸月評」
tomomi_keep

小林秀雄


人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて来る。
彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、
小説家にもなれたろう、
然し 彼は彼以外のものにはなれなかった。
これは驚く可き事実である。
        
「様々なる意匠」 p.138
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