ナショナリズム
(禁を破って敢えて書く)
今回の問題を、排外主義批判とすること自体は、勿論間違ってはいない。
だが、常識的に考えれば、排外主義のベースにはナショナリズムがある。
ホント、はてサには困ったなと思うのは、このナショナリズム自体は肯定していること。「日本人の責任」「朝鮮人になりたい」等々の形で、ナショナリズム自体は留保なく肯定されてしまっている。
しかも、「よい暴力」という形で、暴力の主観的正当化までしている。
だが、勿論、この2つが同時に肯定されていると言うことは、実は、在特会との違いは、見かけほどではないということを意味している。
いうまでもなく、「ナショナリズムと結びついた暴力の主観的正当化」は、近代以降の諸悪の根源と言っていい。こんなこと、常識以前の筈だが、ここではそれが常識ではない。
だから、はてなでは、「ナショナリズム」という言葉自体をほとんど全くといっていいほど見ない。日の丸・天皇という表象への攻撃はあっても、また反日という形での「日本人」への攻撃はあっても、排外主義批判という言葉はあっても、その実体であるナショナリズム自体は常に批判の圏外にある。毛沢東への支持や、朝鮮民主主義人民共和国への無批判というのも、同じ文脈にあるのだろう。
だがこれでは、結局、在特会と同じ土俵で、表象を争って殴り合いをしているだけになる。
勿論これは、ネイションが未だに精算されるどころか支配的なアジア、極東の状況を素直に反映しているに過ぎない。が、それでも、アナクロであることには変わりがない。
でもね、中国共産党の支配がゆるむにつれ、新疆でおきたようなボスニアのアジア版は、極東全域で激しくなるだろう。チェチェンでおきていることが、こっちでも起きるようになる。当然、日本の一部での「排外主義」的思考も、今後もっと激しくなるだろう。そのとき、ナショナリズムをベースにして、まともに対処できるとは到底思えない。
少なくとも、このナショナリズムへの鈍感さは、なんとかしてもらわないと困る。せめてナショナリズム批判ぐらいは、ちゃんとできるようにしておいてほしい。
今回の問題を、排外主義批判とすること自体は、勿論間違ってはいない。
だが、常識的に考えれば、排外主義のベースにはナショナリズムがある。
ホント、はてサには困ったなと思うのは、このナショナリズム自体は肯定していること。「日本人の責任」「朝鮮人になりたい」等々の形で、ナショナリズム自体は留保なく肯定されてしまっている。
しかも、「よい暴力」という形で、暴力の主観的正当化までしている。
だが、勿論、この2つが同時に肯定されていると言うことは、実は、在特会との違いは、見かけほどではないということを意味している。
いうまでもなく、「ナショナリズムと結びついた暴力の主観的正当化」は、近代以降の諸悪の根源と言っていい。こんなこと、常識以前の筈だが、ここではそれが常識ではない。
だから、はてなでは、「ナショナリズム」という言葉自体をほとんど全くといっていいほど見ない。日の丸・天皇という表象への攻撃はあっても、また反日という形での「日本人」への攻撃はあっても、排外主義批判という言葉はあっても、その実体であるナショナリズム自体は常に批判の圏外にある。毛沢東への支持や、朝鮮民主主義人民共和国への無批判というのも、同じ文脈にあるのだろう。
だがこれでは、結局、在特会と同じ土俵で、表象を争って殴り合いをしているだけになる。
勿論これは、ネイションが未だに精算されるどころか支配的なアジア、極東の状況を素直に反映しているに過ぎない。が、それでも、アナクロであることには変わりがない。
でもね、中国共産党の支配がゆるむにつれ、新疆でおきたようなボスニアのアジア版は、極東全域で激しくなるだろう。チェチェンでおきていることが、こっちでも起きるようになる。当然、日本の一部での「排外主義」的思考も、今後もっと激しくなるだろう。そのとき、ナショナリズムをベースにして、まともに対処できるとは到底思えない。
少なくとも、このナショナリズムへの鈍感さは、なんとかしてもらわないと困る。せめてナショナリズム批判ぐらいは、ちゃんとできるようにしておいてほしい。

