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保坂和志

小説というのは社会的文脈で解釈したり精神分析的な図式に置き直したりする以前の、読んでいる最中に感じる、居ても立ってもいられない気持ちを読者の中に喚び起こす何かのことだ。(「小説の誕生」p231)
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保坂和志

一八八三年に生まれたカフカと一八八九年に生まれたハイデガーが時代の同じ空気を吸って、正反対の打開策を考えていた、というかここが思想家と小説家の違うところで、思想家はそこで俯瞰的な思考法を使い、小説家は俯瞰される側にいる一員として考えたり感じたりしていたのだ。(「小説の誕生」p89)
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保坂和志

哲学とは結論を読むものではなくて思考のプロセスを読むものだ。結論というのはプロセスそのものの中にあるとしか言えない。小説となるともっとプロセスしかない。音楽を聞くときに「結論は何か?」と考えないのと同じようなものだとでも言えばいいだろうか。音楽でも絵でもそれをいいと思っている人は言葉を必要としていない。音楽や絵の前で言葉を必要とする人はそれをどう受容していいかわからない人たちだ。(「小説の誕生」p53)
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保坂和志

私の関心というのは、ひとつは「小説の理想形」みたいなことだ。それはカフカの『城』とかガルシア=マルケスの『百年の孤独』というような具体的な作品のことではたぶんなくて、そういう小説を読んでいるあいだに訪れる、高揚感というよりももっと大きな、思考がバーッと開かれるような経験のことだ。(「小説の自由」p257)
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保坂和志

小説を書くことは、自分がいま書いている小説を注意深く読むことなのだ。
小説家はどんな読者より注意深く、自分がいま書いている小説を読んでいる。(略)
そう。小説家には、自分がいま書いている小説のことだけが頭にある。(略) それゆえ小説家は自分が書いた原稿を繰り返し読んでいる。
最近何日間かで書いたわずか二〇枚とか三〇枚の原稿を、結果としてトータルで何十時間も読んでしまっているのが小説家だ。だからどんな読者よりも注意深くならざるを得ない。(略)だから読者はもっと小説を大事に読むべきだ――なんてことを言いたいのではない。読者やそれを批評する評論家と、全然違った次元で小説家は自分の小説とつきあっているということだ。(「小説の自由」p165-166)
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保坂和志

しかし、やっぱり私は『城』をもっと記憶するまで読まなければいけないのではないか。クラシック音楽のファンだったら、四、五十分ある交響曲の全体を記憶している曲が一つか二つあるのではないか。それなのにどうして小説の方は一回や二回読んだだけで「読んだ」ことになってしまうのか。小説をもっとずっと音楽の受容の仕方に近づけることが、小説を、批評という小説とは似ても似つかない言葉から自由にすることなのではないか。(「小説の自由」p128)
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保坂和志

小説は読んでいる時間の中にしかない。音楽は音であり、絵は色と線の集合であって、どちらも言葉とははっきり別の物質だから、みんな音楽や絵を言葉で伝えられないことを了解しているけれど、小説もまた読みながら感覚が運動する現前性なのだから言葉で伝えることができない。(「小説の自由」p74)
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保坂和志

私は(略)、基本的に、読みたいときに読みたい本しか読まず、読みかけの本でも飽きるとそこで簡単に投げ出してしまう。一見じつに不謹慎な読み方だが、本当は反対で本に対して敬意を払っているからだ。何らかの面白さやいわくいいがたさをそこに感じることのできない本を最後まで読み通すくらい本を馬鹿にした話はないだろう。課業と化してしまった読書は、その本に対して一種の蔑視を生み出す。(「小説の自由」p49)
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保坂和志

批判は知的な行為ではない。批判はこちら側が一つか二つだけの限られた読み方の方法論や流儀を持っていれば簡単にできる。本当の知的行為というのは自分がすでに持っている読み方の流儀を捨てていくこと、新しく出合った小説を読むために自分をそっちに投げ出してゆくこと、だから考えることというのは批判をすることではなくて信じること。そこに書かれていることを真に受けることだ。(「小説、世界の奏でる音楽」p10)
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二宮清純

野茂がメジャー挑戦に打って出たとき、球界の権力者やマスコミはこぞって彼に「裏切り者」「わがまま」「メジャーでは通用しない」などと罵詈雑言を浴びせた。吉国一郎コミッショナー(当時)にいたっては、十二球団に「第二の野茂を出すな」という通達まで出した。
ところが野茂が破竹の快進撃を始めるや、彼らは恥ずかしげもなく態度を変えた。吉国氏は「コミッショナーとして誇りに思う」と平然と言ってのけたが、これには野茂も呆れ顔だった。「こういうのを掌返しというんでしょうね。こんな日本人にはなりたくない」(週刊文春7/31/08 特別寄稿)
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平岩弓枝

第三者には歩いている当事者の足の下が石ころだらけであったり、ずるずると足が埋まって抜けなくなるような砂地であったりしたのはわかりにくい。歩いている中に足許にぽっかり穴があいていてころげ落ちかけても、当事者が大声で叫び、喚き散らさない限り、人にはちょっとつまずいた程度にしかみえない。それは誰の人生にもあることで、どんな幸せな人もまっすぐで平坦な道を歩いて一生を終ることはあるまいと思う。(日経新聞7/31/08)
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勝間和代

「努力不足の四段活用」と呼んでるんですけれど。まず自分の「努力不足」から始まって、「責任転嫁」するんです。会社が悪いとか、家族が悪いとか。次に「被害者」になる。「なんてかわいそうなんだろう、こんな時代に生まれて」みたいな。それで最後に「加害者」になって、他人の足を引っ張る。(勝間和代vs小飼弾 異色対談第5回)
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野月浩貴

直線的に攻める、または守るだけでは現代将棋では極めて勝率が悪い。視野を広く持って、あちこちで戦えるように全体を見渡さなければいけない。
戦いが起こった場所と、あえて違う場所に目が行くようでないと棋士として通用しない。そのために長い持ち時間で、戦いが始まる前に長考して、手順の組み合わせを無数頭の中に張り巡らせるのだ。
読みの勝負の前に、構想力が求められる。(日経新聞7/8/08)
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齋藤孝

「最も大いなる事件というのは、われわれのもつ最も騒がしい時間ではなくて、最も静かな時間なのだ。」(「ツァラトゥストラ」p209)
静かな時間に価値が発明される。世界は「音もなく回転する」のだ。(「座右のニーチェ」p87)
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齋藤孝

エッジに立つ人、マージナルな(境界、辺境にいる)人は、風を受け、半分谷底へ落ちそうな緊張感を味わいながら、新しいものを生み出していくものなのだ。その反対がおしくらまんじゅうをしているような大衆社会である。おしくらまんじゅうの真ん中にいて、人に押してもらった力で温まっていられる状態は安心だし、ぼんやりした気分でいられる。(「座右のニーチェ」p206)
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齋藤孝

師弟関係はいわば卒業を経て、孤独へとつづく。しかしそのときに、孤高の者たちは本当の友になれるのである。(「座右のニーチェ」p163)
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齋藤孝

生徒は「過剰をもっとくれ」と貪欲に願う。教師はあり余った知識や経験を、生徒に分け与えることで楽になる。誰も受けとってくれなくても、光=エネルギーを与えつづけはする。見返りは求めない。(中略) 師弟関係とは、そのような太陽と人間の関係以外の何物でもない、といえる。(「座右のニーチェ」p133)
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齋藤孝

私はこの数年、「ちまつく」ということばに凝っている。音から連想できるように、「物事の大局を見ないで、細かな、ちまちましたことばかりあげつらい、他者のやる気を削いでいく行為」をさす。日本語にはない。私の造語である。ニーチェの思想や主張を、私流にひとことでまとめるなら、「ちまつくな!」である。(「座右のニーチェ」p111)
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齋藤孝

時間は平坦に流れてなどいない。一生において、時間の流れは密度と緩急が変わる。その流れを感知し、加速するか失速するかが事の正否を分ける。一瞬のひらめきや感動に敏感であってこそ、大きな仕事を成し遂げることができる。(「座右のニーチェ」p72)
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阿久悠

仕事をして生きて来た中で、ぼくが恩に着る人があるとすれば、それは、大した実績もない時に、才能を買い、大いなる賭けをしてくれた人に対して、永久に忘れない恩を感じることにしている。チャンスとは、不確かな時に与えられてこそ価値があるもので、確かになってから上手に組んだということとは違うのである。(「夢を食った男たち」p314)
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