また騙されてダム板に飛ばされたわけだが
http://twilog.org/fjroow/date-120507/ascへの応答。
すみません。よくよく考え抜いたうえで書いたことでないので、試考のひとつだと思ってください(笑)。深夜の予約投稿にしてたのも、あまり人の目に触れないようにということです。意図としては、かつてあっしら(小魚骨)さんが善や正義の危険性について書かれていたのを、自分のもつ文脈で考えなおしてみようというのがぼんやりとあったように思います。興味がございましたら、以下の投稿のツリーを読んでみてください。
悪と善の序列 小魚骨
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/962.html
悪を知れば、善を知る必要はない。 小魚骨
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/983.html
善なる観念や基準を持ち出し始めることで直観では出てこない悪を為すようになった。 あっしら
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/989.html
どうせくだらん抑制になるに決まっている善などクソ食らえ、です(笑) あっしら
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/995.html
【補足】“善”なる言葉を駆使して紡ぎ上げられた説明のおぞましさと危険性 あっしら
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/996.html
もう一度じっくり考え、仕切り直ししたほうがいいと思います。 あっしら
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/1004.html
ここで、あっしらさんが「善は不要だとするのは、「人は、支配―被支配構造から抜け出せば、感じるままで善を為す存在者であるはずだ」という確信によるものです。」と述べていることについて、これは概ね妥当だろうと考えていたのですが、最近それを考えなおさなければと思いまして……
http://twilog.org/waferwader/date-120503/asc
この5月3日のツイート群ですね。私にしては、割りとがんばって(がんばると心身に障りが出る人間です)書いたと思っています。これは、事情のわからない人にはさっぱりわからない内容だと思うのですが、要点だけざっというと、『ハラスメントは連鎖する』という本が(もう絶版なのですが)ありまして、その本の中で「魂の脱植民地化」ということが語られているのです。これがどういうものかという説明は大変なので省きますが、最近「魂の脱植民地化」を考えるコンポジウム「原発事故で何が吹き飛んだか? ~日本社会の隠蔽構造とその露呈~」というものが、この本の著者の安冨歩さんを中心に開催されまして、それを私もユーストリームの中継で見たのですが、終了後に、このコンポジウムをめぐって論議が巻き起こり、私も意図しない形でそれに少し巻きこまれることになり、そこで感じた違和感を言語化して、自分がどう思いなにを考えているのかをはっきりさせないことには、身動きがとれないように感じたのでした。それで、自分の考えをまとめるのにひと月ほどかけました。
全て書き切れたわけではありませんでしたが、とりあえず自分の感じた違和感については5月3日のツイート群で大体ふれられたと思っています。それ以後も、その落穂拾いみたいなことをやっています(笑)
5月6日に書いたのは直接は関係しませんが、『ハラスメントは連鎖する』には、アリス・ミラーとアルノ・グリューンという精神分析家のハラスメント理論がベースにあって、それが「人は、支配―被支配構造から抜け出せば、感じるままで善を為す存在者であるはずだ」という確信を考えなおすことを迫ったのです。これも私の注目した要点だけの紹介にしますが、そこでいわれているのは、支配―被支配構造の淵源は親子関係、特に3歳までの親子関係にあるということで、そこで自分を裏切ってしまうと、子どもはそのときに受けたハラスメントの構造を再生産してしまうと。そういうことを第三帝国など、いろいろ例に出して書いているのです。
なので、この社会の支配―被支配構造を解消するには、私たち一人ひとりがその淵源となる子ども時代の親子関係にまで遡って、いわば血肉化した支配―被支配構造を解消しなければならないと。それが「魂の脱植民地化」であると、まあこんなような話でして、これはなかなか大変だなあと。
仏教だと、私たちの心は月であり、それに煩悩である雲がかかっているという状態なのだというようなことがよくいわれますね。「人は、支配―被支配構造から抜け出せば、感じるままで善を為す存在者であるはずだ」というのは、この雲をどければ、どけることができるのであれば、そのとおりであるということになるのだと思います。でも、これはそんなに簡単なことではないなと――アリス・ミラーとアルノ・グリューンはそれを人びとに求めるのですが――、彼らの本を読んで思いまして、そういえば親鸞も、自力では悟れぬものと悟りたりみたいなことをいっているわけで、ああ、なるほど、ハラスメント理論と他力思想というのは反りが合わないのだなと、そこで気がつきました。
人は善をなせないだけでなく、悪を避けることすら思うままにできない存在なのであるというと歎異抄などで語られていたことに気づいたわけです。最初から気づけという話なのですが、で、まあ、これはどうしたものかなと。それで、なぜ浄土教で念仏が唯一の善とされるのかとか、そういうことを考えてみたのです。それが5月6日のツイート。
五木寛之氏の『隠れ念仏と隠し念仏』は私も読みましたが、念仏者というのは社会的な善悪とは別の善悪の観念を内に抱いているので、社会の支配層にとっては不気味な存在でしょうね。弾圧や迫害をする人びとに対し、念仏者はどう行動すべきなのかという話があったと思います。ありえる道としては、①対決②服従③逃亡④隠遁であると。念仏(という善行)を不可能にするような勢力とどう対峙するかは、念仏者たちにとって重大な問題であったはずです。一向一揆などは、念仏を弾圧する者を排除することを目指したものだったかと思います。ただ、これも念仏しない奴らは悪だから殺せとか、改宗させろという方向には行きづらいのではないかと。
善や正義を行いたいというのは、もうこれは人間の抜きがたい欲だと思います。そして、そうした善・正義への欲、正しくありたいという欲を熟知していたからこそ、社会的に役に立たないようなもの(念仏など)を善としたのではないかという試考です。もし人を殺すのが善や正義とされたのであれば、人はそれを喜んでするようになります(戦争という状況を思い浮かべてもらえば……)。
こんなところでしょうか。答えられていないところもあるかもしれませんが、背景を知ってもらったほうがわかりやすいような気がしたので、ざっと書いてみました。
すみません。よくよく考え抜いたうえで書いたことでないので、試考のひとつだと思ってください(笑)。深夜の予約投稿にしてたのも、あまり人の目に触れないようにということです。意図としては、かつてあっしら(小魚骨)さんが善や正義の危険性について書かれていたのを、自分のもつ文脈で考えなおしてみようというのがぼんやりとあったように思います。興味がございましたら、以下の投稿のツリーを読んでみてください。
悪と善の序列 小魚骨
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/962.html
悪を知れば、善を知る必要はない。 小魚骨
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/983.html
善なる観念や基準を持ち出し始めることで直観では出てこない悪を為すようになった。 あっしら
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/989.html
どうせくだらん抑制になるに決まっている善などクソ食らえ、です(笑) あっしら
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/995.html
【補足】“善”なる言葉を駆使して紡ぎ上げられた説明のおぞましさと危険性 あっしら
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/996.html
もう一度じっくり考え、仕切り直ししたほうがいいと思います。 あっしら
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/1004.html
ここで、あっしらさんが「善は不要だとするのは、「人は、支配―被支配構造から抜け出せば、感じるままで善を為す存在者であるはずだ」という確信によるものです。」と述べていることについて、これは概ね妥当だろうと考えていたのですが、最近それを考えなおさなければと思いまして……
http://twilog.org/waferwader/date-120503/asc
この5月3日のツイート群ですね。私にしては、割りとがんばって(がんばると心身に障りが出る人間です)書いたと思っています。これは、事情のわからない人にはさっぱりわからない内容だと思うのですが、要点だけざっというと、『ハラスメントは連鎖する』という本が(もう絶版なのですが)ありまして、その本の中で「魂の脱植民地化」ということが語られているのです。これがどういうものかという説明は大変なので省きますが、最近「魂の脱植民地化」を考えるコンポジウム「原発事故で何が吹き飛んだか? ~日本社会の隠蔽構造とその露呈~」というものが、この本の著者の安冨歩さんを中心に開催されまして、それを私もユーストリームの中継で見たのですが、終了後に、このコンポジウムをめぐって論議が巻き起こり、私も意図しない形でそれに少し巻きこまれることになり、そこで感じた違和感を言語化して、自分がどう思いなにを考えているのかをはっきりさせないことには、身動きがとれないように感じたのでした。それで、自分の考えをまとめるのにひと月ほどかけました。
全て書き切れたわけではありませんでしたが、とりあえず自分の感じた違和感については5月3日のツイート群で大体ふれられたと思っています。それ以後も、その落穂拾いみたいなことをやっています(笑)
5月6日に書いたのは直接は関係しませんが、『ハラスメントは連鎖する』には、アリス・ミラーとアルノ・グリューンという精神分析家のハラスメント理論がベースにあって、それが「人は、支配―被支配構造から抜け出せば、感じるままで善を為す存在者であるはずだ」という確信を考えなおすことを迫ったのです。これも私の注目した要点だけの紹介にしますが、そこでいわれているのは、支配―被支配構造の淵源は親子関係、特に3歳までの親子関係にあるということで、そこで自分を裏切ってしまうと、子どもはそのときに受けたハラスメントの構造を再生産してしまうと。そういうことを第三帝国など、いろいろ例に出して書いているのです。
なので、この社会の支配―被支配構造を解消するには、私たち一人ひとりがその淵源となる子ども時代の親子関係にまで遡って、いわば血肉化した支配―被支配構造を解消しなければならないと。それが「魂の脱植民地化」であると、まあこんなような話でして、これはなかなか大変だなあと。
仏教だと、私たちの心は月であり、それに煩悩である雲がかかっているという状態なのだというようなことがよくいわれますね。「人は、支配―被支配構造から抜け出せば、感じるままで善を為す存在者であるはずだ」というのは、この雲をどければ、どけることができるのであれば、そのとおりであるということになるのだと思います。でも、これはそんなに簡単なことではないなと――アリス・ミラーとアルノ・グリューンはそれを人びとに求めるのですが――、彼らの本を読んで思いまして、そういえば親鸞も、自力では悟れぬものと悟りたりみたいなことをいっているわけで、ああ、なるほど、ハラスメント理論と他力思想というのは反りが合わないのだなと、そこで気がつきました。
人は善をなせないだけでなく、悪を避けることすら思うままにできない存在なのであるというと歎異抄などで語られていたことに気づいたわけです。最初から気づけという話なのですが、で、まあ、これはどうしたものかなと。それで、なぜ浄土教で念仏が唯一の善とされるのかとか、そういうことを考えてみたのです。それが5月6日のツイート。
五木寛之氏の『隠れ念仏と隠し念仏』は私も読みましたが、念仏者というのは社会的な善悪とは別の善悪の観念を内に抱いているので、社会の支配層にとっては不気味な存在でしょうね。弾圧や迫害をする人びとに対し、念仏者はどう行動すべきなのかという話があったと思います。ありえる道としては、①対決②服従③逃亡④隠遁であると。念仏(という善行)を不可能にするような勢力とどう対峙するかは、念仏者たちにとって重大な問題であったはずです。一向一揆などは、念仏を弾圧する者を排除することを目指したものだったかと思います。ただ、これも念仏しない奴らは悪だから殺せとか、改宗させろという方向には行きづらいのではないかと。
善や正義を行いたいというのは、もうこれは人間の抜きがたい欲だと思います。そして、そうした善・正義への欲、正しくありたいという欲を熟知していたからこそ、社会的に役に立たないようなもの(念仏など)を善としたのではないかという試考です。もし人を殺すのが善や正義とされたのであれば、人はそれを喜んでするようになります(戦争という状況を思い浮かべてもらえば……)。
こんなところでしょうか。答えられていないところもあるかもしれませんが、背景を知ってもらったほうがわかりやすいような気がしたので、ざっと書いてみました。
上田上葉
「人は支配―被支配構造から抜け出せば感じるままで善を為す存在者である」というのは、人が犯してしまう「悪」には本来リミッターがかかっているという意味で考えればいいと思います。なぜリミッターがかかっているかというと、人の欲望は無制限なものではないからです。たとえば、食欲・性欲・睡眠欲、これら人間の三大欲求と呼ばれるものを考えても、それらは無制限ではありません。それが支配―被支配構造の下では外れ、無制限なものとなってしまう。支配―被支配構造がどのように生まれたかというと、これは人類が定住生活を行うようになり、モノの備蓄が可能になったことで生まれました。モノの備蓄が可能になるとは、貧富の差が生まれることです。とはいえ、モノは腐るので、永遠に貯めておくことができるわけではありません。そこで考えられたのが貨幣で、これにより人間の活動力がいつでも引き出せるようになりました。貨幣により、人間の欲望のリミッターが外れ、無制限となったわけです。以下の「アメリカ人旅行者とメキシコ人漁師の寓話」で示されるように。
http://www.geocities.jp/fhxtk948/Joke/025.html
支配―被支配構造というのは、定住生活とともに生まれたもので、遊動生活をしているあいだは、支配―被支配という関係はあったとしても、それは制限されており、構造として現れることはありませんでした。「人間の集団の本質」がなにかというのはまさに焦点で、それが無支配にあるというのが老荘思想であり、「人は支配―被支配構造から抜け出せば感じるままで善を為す存在者である」というあっしらさんの確信なのでしょう。この無支配への希求は、世界史においては、普遍宗教として現象するということを、柄谷行人が『世界史の構造』などで書いています。浄土真宗はもちろん、普遍宗教です。
支配―被支配という関係構造について、社会的な説明としては以上のようになると思います。これが、ハラスメントとして、精神的な領域にも組み込まれているというのが、アリス・ミラーやアルノ・グリューンの理論だと考えられます。そこではリミッターを失った人間が「虐待の連鎖」という形で再生産されている。こうした認識です。
http://www.geocities.jp/fhxtk948/Joke/025.html
支配―被支配構造というのは、定住生活とともに生まれたもので、遊動生活をしているあいだは、支配―被支配という関係はあったとしても、それは制限されており、構造として現れることはありませんでした。「人間の集団の本質」がなにかというのはまさに焦点で、それが無支配にあるというのが老荘思想であり、「人は支配―被支配構造から抜け出せば感じるままで善を為す存在者である」というあっしらさんの確信なのでしょう。この無支配への希求は、世界史においては、普遍宗教として現象するということを、柄谷行人が『世界史の構造』などで書いています。浄土真宗はもちろん、普遍宗教です。
支配―被支配という関係構造について、社会的な説明としては以上のようになると思います。これが、ハラスメントとして、精神的な領域にも組み込まれているというのが、アリス・ミラーやアルノ・グリューンの理論だと考えられます。そこではリミッターを失った人間が「虐待の連鎖」という形で再生産されている。こうした認識です。
上田上葉
すみません。よくよく考え抜いたうえで書いたことでないので、試考のひとつだと思ってください(笑)。深夜の予約投稿にしてたのも、あまり人の目に触れないようにということです。意図としては、かつてあっしら(小魚骨)さんが善や正義の危険性について書かれていたのを、自分のもつ文脈で考えなおしてみようというのがぼんやりとあったように思います。興味がございましたら、以下の投稿のツリーを読んでみてください。
悪と善の序列 小魚骨
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/962.html
悪を知れば、善を知る必要はない。 小魚骨
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/983.html
善なる観念や基準を持ち出し始めることで直観では出てこない悪を為すようになった。 あっしら
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/989.html
どうせくだらん抑制になるに決まっている善などクソ食らえ、です(笑) あっしら
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/995.html
【補足】“善”なる言葉を駆使して紡ぎ上げられた説明のおぞましさと危険性 あっしら
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/996.html
もう一度じっくり考え、仕切り直ししたほうがいいと思います。 あっしら
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/1004.html
ここで、あっしらさんが「善は不要だとするのは、「人は、支配―被支配構造から抜け出せば、感じるままで善を為す存在者であるはずだ」という確信によるものです。」と述べていることについて、これは概ね妥当だろうと考えていたのですが、最近それを考えなおさなければと思いまして……
http://twilog.org/waferwader/date-120503/asc
この5月3日のツイート群ですね。私にしては、割りとがんばって(がんばると心身に障りが出る人間です)書いたと思っています。これは、事情のわからない人にはさっぱりわからない内容だと思うのですが、要点だけざっというと、『ハラスメントは連鎖する』という本が(もう絶版なのですが)ありまして、その本の中で「魂の脱植民地化」ということが語られているのです。これがどういうものかという説明は大変なので省きますが、最近「魂の脱植民地化」を考えるコンポジウム「原発事故で何が吹き飛んだか? ~日本社会の隠蔽構造とその露呈~」というものが、この本の著者の安冨歩さんを中心に開催されまして、それを私もユーストリームの中継で見たのですが、終了後に、このコンポジウムをめぐって論議が巻き起こり、私も意図しない形でそれに少し巻きこまれることになり、そこで感じた違和感を言語化して、自分がどう思いなにを考えているのかをはっきりさせないことには、身動きがとれないように感じたのでした。それで、自分の考えをまとめるのにひと月ほどかけました。
全て書き切れたわけではありませんでしたが、とりあえず自分の感じた違和感については5月3日のツイート群で大体ふれられたと思っています。それ以後も、その落穂拾いみたいなことをやっています(笑)
5月6日に書いたのは直接は関係しませんが、『ハラスメントは連鎖する』には、アリス・ミラーとアルノ・グリューンという精神分析家のハラスメント理論がベースにあって、それが「人は、支配―被支配構造から抜け出せば、感じるままで善を為す存在者であるはずだ」という確信を考えなおすことを迫ったのです。これも私の注目した要点だけの紹介にしますが、そこでいわれているのは、支配―被支配構造の淵源は親子関係、特に3歳までの親子関係にあるということで、そこで自分を裏切ってしまうと、子どもはそのときに受けたハラスメントの構造を再生産してしまうと。そういうことを第三帝国など、いろいろ例に出して書いているのです。
なので、この社会の支配―被支配構造を解消するには、私たち一人ひとりがその淵源となる子ども時代の親子関係にまで遡って、いわば血肉化した支配―被支配構造を解消しなければならないと。それが「魂の脱植民地化」であると、まあこんなような話でして、これはなかなか大変だなあと。
仏教だと、私たちの心は月であり、それに煩悩である雲がかかっているという状態なのだというようなことがよくいわれますね。「人は、支配―被支配構造から抜け出せば、感じるままで善を為す存在者であるはずだ」というのは、この雲をどければ、どけることができるのであれば、そのとおりであるということになるのだと思います。でも、これはそんなに簡単なことではないなと――アリス・ミラーとアルノ・グリューンはそれを人びとに求めるのですが――、彼らの本を読んで思いまして、そういえば親鸞も、自力では悟れぬものと悟りたりみたいなことをいっているわけで、ああ、なるほど、ハラスメント理論と他力思想というのは反りが合わないのだなと、そこで気がつきました。
人は善をなせないだけでなく、悪を避けることすら思うままにできない存在なのであるというと歎異抄などで語られていたことに気づいたわけです。最初から気づけという話なのですが、で、まあ、これはどうしたものかなと。それで、なぜ浄土教で念仏が唯一の善とされるのかとか、そういうことを考えてみたのです。それが5月6日のツイート。
五木寛之氏の『隠れ念仏と隠し念仏』は私も読みましたが、念仏者というのは社会的な善悪とは別の善悪の観念を内に抱いているので、社会の支配層にとっては不気味な存在でしょうね。弾圧や迫害をする人びとに対し、念仏者はどう行動すべきなのかという話があったと思います。ありえる道としては、①対決②服従③逃亡④隠遁であると。念仏(という善行)を不可能にするような勢力とどう対峙するかは、念仏者たちにとって重大な問題であったはずです。一向一揆などは、念仏を弾圧する者を排除することを目指したものだったかと思います。ただ、これも念仏しない奴らは悪だから殺せとか、改宗させろという方向には行きづらいのではないかと。
善や正義を行いたいというのは、もうこれは人間の抜きがたい欲だと思います。そして、そうした善・正義への欲、正しくありたいという欲を熟知していたからこそ、社会的に役に立たないようなもの(念仏など)を善としたのではないかという試考です。もし人を殺すのが善や正義とされたのであれば、人はそれを喜んでするようになります(戦争という状況を思い浮かべてもらえば……)。
こんなところでしょうか。答えられていないところもあるかもしれませんが、背景を知ってもらったほうがわかりやすいような気がしたので、ざっと書いてみました。
悪と善の序列 小魚骨
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/962.html
悪を知れば、善を知る必要はない。 小魚骨
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/983.html
善なる観念や基準を持ち出し始めることで直観では出てこない悪を為すようになった。 あっしら
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/989.html
どうせくだらん抑制になるに決まっている善などクソ食らえ、です(笑) あっしら
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/995.html
【補足】“善”なる言葉を駆使して紡ぎ上げられた説明のおぞましさと危険性 あっしら
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/996.html
もう一度じっくり考え、仕切り直ししたほうがいいと思います。 あっしら
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/1004.html
ここで、あっしらさんが「善は不要だとするのは、「人は、支配―被支配構造から抜け出せば、感じるままで善を為す存在者であるはずだ」という確信によるものです。」と述べていることについて、これは概ね妥当だろうと考えていたのですが、最近それを考えなおさなければと思いまして……
http://twilog.org/waferwader/date-120503/asc
この5月3日のツイート群ですね。私にしては、割りとがんばって(がんばると心身に障りが出る人間です)書いたと思っています。これは、事情のわからない人にはさっぱりわからない内容だと思うのですが、要点だけざっというと、『ハラスメントは連鎖する』という本が(もう絶版なのですが)ありまして、その本の中で「魂の脱植民地化」ということが語られているのです。これがどういうものかという説明は大変なので省きますが、最近「魂の脱植民地化」を考えるコンポジウム「原発事故で何が吹き飛んだか? ~日本社会の隠蔽構造とその露呈~」というものが、この本の著者の安冨歩さんを中心に開催されまして、それを私もユーストリームの中継で見たのですが、終了後に、このコンポジウムをめぐって論議が巻き起こり、私も意図しない形でそれに少し巻きこまれることになり、そこで感じた違和感を言語化して、自分がどう思いなにを考えているのかをはっきりさせないことには、身動きがとれないように感じたのでした。それで、自分の考えをまとめるのにひと月ほどかけました。
全て書き切れたわけではありませんでしたが、とりあえず自分の感じた違和感については5月3日のツイート群で大体ふれられたと思っています。それ以後も、その落穂拾いみたいなことをやっています(笑)
5月6日に書いたのは直接は関係しませんが、『ハラスメントは連鎖する』には、アリス・ミラーとアルノ・グリューンという精神分析家のハラスメント理論がベースにあって、それが「人は、支配―被支配構造から抜け出せば、感じるままで善を為す存在者であるはずだ」という確信を考えなおすことを迫ったのです。これも私の注目した要点だけの紹介にしますが、そこでいわれているのは、支配―被支配構造の淵源は親子関係、特に3歳までの親子関係にあるということで、そこで自分を裏切ってしまうと、子どもはそのときに受けたハラスメントの構造を再生産してしまうと。そういうことを第三帝国など、いろいろ例に出して書いているのです。
なので、この社会の支配―被支配構造を解消するには、私たち一人ひとりがその淵源となる子ども時代の親子関係にまで遡って、いわば血肉化した支配―被支配構造を解消しなければならないと。それが「魂の脱植民地化」であると、まあこんなような話でして、これはなかなか大変だなあと。
仏教だと、私たちの心は月であり、それに煩悩である雲がかかっているという状態なのだというようなことがよくいわれますね。「人は、支配―被支配構造から抜け出せば、感じるままで善を為す存在者であるはずだ」というのは、この雲をどければ、どけることができるのであれば、そのとおりであるということになるのだと思います。でも、これはそんなに簡単なことではないなと――アリス・ミラーとアルノ・グリューンはそれを人びとに求めるのですが――、彼らの本を読んで思いまして、そういえば親鸞も、自力では悟れぬものと悟りたりみたいなことをいっているわけで、ああ、なるほど、ハラスメント理論と他力思想というのは反りが合わないのだなと、そこで気がつきました。
人は善をなせないだけでなく、悪を避けることすら思うままにできない存在なのであるというと歎異抄などで語られていたことに気づいたわけです。最初から気づけという話なのですが、で、まあ、これはどうしたものかなと。それで、なぜ浄土教で念仏が唯一の善とされるのかとか、そういうことを考えてみたのです。それが5月6日のツイート。
五木寛之氏の『隠れ念仏と隠し念仏』は私も読みましたが、念仏者というのは社会的な善悪とは別の善悪の観念を内に抱いているので、社会の支配層にとっては不気味な存在でしょうね。弾圧や迫害をする人びとに対し、念仏者はどう行動すべきなのかという話があったと思います。ありえる道としては、①対決②服従③逃亡④隠遁であると。念仏(という善行)を不可能にするような勢力とどう対峙するかは、念仏者たちにとって重大な問題であったはずです。一向一揆などは、念仏を弾圧する者を排除することを目指したものだったかと思います。ただ、これも念仏しない奴らは悪だから殺せとか、改宗させろという方向には行きづらいのではないかと。
善や正義を行いたいというのは、もうこれは人間の抜きがたい欲だと思います。そして、そうした善・正義への欲、正しくありたいという欲を熟知していたからこそ、社会的に役に立たないようなもの(念仏など)を善としたのではないかという試考です。もし人を殺すのが善や正義とされたのであれば、人はそれを喜んでするようになります(戦争という状況を思い浮かべてもらえば……)。
こんなところでしょうか。答えられていないところもあるかもしれませんが、背景を知ってもらったほうがわかりやすいような気がしたので、ざっと書いてみました。
名言
湊かなえ「告白」から。「ほとんどの人たちは、他人から賞賛されたいという願望を少なからず持っているのではないでしょうか。しかし、良いことや、立派なことをするのは大変です。では、一番簡単な方法は何か。悪いことをした人を責めればいいのです。」
http://twitter.com/yinoue1975/status/196970416177287168
さらに進んで「悪いことをした人に仕立て上げて責める」ことも平気で罷り通ってるからねぇ。
http://twitter.com/TriggerJones42/status/196973654897197057
http://twitter.com/yinoue1975/status/196970416177287168
さらに進んで「悪いことをした人に仕立て上げて責める」ことも平気で罷り通ってるからねぇ。
http://twitter.com/TriggerJones42/status/196973654897197057
体にやさしいパンク
死んだほーがまし
キミを待つより、ヤケを待つより、すでにどうだっていいのさ、死んだほーがまし。
遊ばれたけど満足もした。やり場のなさに入ってるよ。
チャンスがあれば、チャンスがあれば、なんにもなけりゃ死んだほうが……
キミを待つより、ヤケを待つより、すでにどうだっていいのさ、死んだほーがまし。
ふぬけたやつだ、となったら終わり。なぐさめられてグチっている。
チャンスがあれば、チャンスがあれば、なんにもなけりゃ死んだほうが……
キミを待つより、ヤケを待つより、なぐさめられてグチるより、死んだほーがまし。
キミを待つより、ヤケを待つより、すでにどうだっていいのさ、死んだほーがまし。
死んだほーがまし。
体にやさしいパンク
新曲F
ケバい、鼻血出そうだぜ、どこの彼女と、古いビールを飲んだら、シャイな気分で眠る。
声をかけなけりゃ、声をかけなけりゃ、シャイな目つきがゴージャス。
ぼくはケバ好み、シャイなケバ好み、いまがチャンスだ、見てるぞ。
ケバい、鼻血出そうだぜ、よその彼女と古いビールを飲んだら、シャイな気分で眠る。
バカをくりかえす、グチをくりかえす、誰のせいでもないのに。
バカ……女だろか、誰の女だろか、*****きがないわく。
夢も希望もないまま、バカは元気だ、古いマン汁飲んだら、シャイな気分で眠る。
遊ぼーぜ。
夢も希望もないまま、バカは元気だ、古いマン汁飲んだら、シャイな気分で眠る。
眠る。眠る。シャイな気分で眠る。
上田上葉
以前にツイッターお書きになっていたのは、原発や放射能汚染の問題とは直接関係しない問題で生じる分断のことでしたが、私は反原発の運動自体が生む分断のことをいま考えています。早川由紀夫氏は「国が私を殺そうとしているのではない。福島の農家が私を殺そうとしているのだ。殺そうとしているやつに攻撃のねらいを定めるのが正しい」(http://twitter.com/HayakawaYukio/status/140776690422001664)といって政府ではなく農家にその矛先を向け、木下黄太氏は「正直、何で皆さん危険な汚染地に居続けるのですか?」(http://blog.goo.ne.jp/nagaikenji20070927/e/d9a9fc7bc39815d730b14d0d58bd703a)といって、そこを離れられない人々を罵っています。早川さんは反原発ではないですが(http://twilog.org/tweets.cgi?id=HayakawaYukio&word=%E5%8F%8D%E5%8E%9F%E7%99%BA)、彼らを支持する反原発派の人も少なくない。
私はこれまで、できるだけ内部分裂は避けるべきだと考えてきましたが、彼らを支持、または黙認することで、自分のところから黙って去っていく人がいることを知りました。放射性廃棄物を福島に集めるなど許せない。結局それは、福島に全ての不利益を押しつけることではないのかと。それに対して、そうすることが“合理的”な理由も、挙げようと思えば、挙げられるでしょう。しかし、責任逃れと切り捨てであることは否定できないと思いました。イデオロギーというレベルではない、単なる利害関係によって、われわれは分断され、分裂していく……、それは避けられないように思えました。
こうすればいいという正解は誰ももっていないと思います。ですが自分以外の人がどう考えるのか、それも聞いてみたいと思いました。そのとき、モジモジさんが以前、反原発デモ(経産省前座り込みだったかな?)で生まれる分断についてツイートされていたことを思い出したので、最近お忙しそうですが、お考えを聞いてみたいと思いました。よろしければ聞かせてください。
IDコール用にご自由にお使い下さい。
ありがとうございます。http://twilog.org/settings.cgi から「過去のツイートの取得」もしていただけたら。「2000ツイートは遡れるはずです」とさっき書いたのは勘違いで、最新のツイートから最大で約3200件までは取得できるはずです。
IDコール用にご自由にお使い下さい。
では、私のIDページに書きます。考えるのも書くのも遅いので、時間がかかりますがよろしくお願いします。
あと、ツイログも嫌でなければ登録してほしいのですが、どうでしょうか。2000ツイートは遡れるはずです。
あと、ツイログも嫌でなければ登録してほしいのですが、どうでしょうか。2000ツイートは遡れるはずです。
IDコール用にご自由にお使い下さい。
あ、どうも。偶然合ったようですね。
以前、ツイッターで、反原発デモ(経産省前座り込みだったかな?)で、反原発の運動を広めるためということで「右翼」を許容するのには問題があるということを書かれていたように記憶しています。その理由は確か、そうした「右翼」を許容することで反原発運動から去っていってしまう人がいるからだと。そうした去っていってしまう人がいることにも目を向けなければならない、という趣旨だったと思います。
モジモジさん、ツイログに登録されてないので該当するツイートを示せないのですが、そのこととの関連で、考えをまとめるのに少し力を貸してもらえないかと思っています。よろしいでしょうか?
なぜハイクなのかというと、ツイッターは流れが速くてじっくり考えられないし、また短文のやりとりも私はどうも上手くやれないという個人的なものです。
以前、ツイッターで、反原発デモ(経産省前座り込みだったかな?)で、反原発の運動を広めるためということで「右翼」を許容するのには問題があるということを書かれていたように記憶しています。その理由は確か、そうした「右翼」を許容することで反原発運動から去っていってしまう人がいるからだと。そうした去っていってしまう人がいることにも目を向けなければならない、という趣旨だったと思います。
モジモジさん、ツイログに登録されてないので該当するツイートを示せないのですが、そのこととの関連で、考えをまとめるのに少し力を貸してもらえないかと思っています。よろしいでしょうか?
なぜハイクなのかというと、ツイッターは流れが速くてじっくり考えられないし、また短文のやりとりも私はどうも上手くやれないという個人的なものです。
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体にやさしいパンク
何か話をしよう 何だかわからないけど
俺はひどく怯えてる 今夜は泊めてくれ
テレビは消してくれないか 明かりもひとつにしてよ
こんなに愛してるから 俺から離れないで
独りぼっちで路地裏 俺の背中の人影に怯えて
気持ちを尖らせて 今まで街灯にもたれてた
抱きしめて 愛してる
抱きしめていたい Oh それだけなのに
何かが俺と社会を不調和にしていく
前から少しずつ 感じていた事なんだ
いつからかそれをさえぎる 顔を持たない街の微笑み
少し疲れただけよって 君は身体すり寄せる
愛なら救うかもしれない
君の為なら犠牲になろう
愛という名のもとに 俺は生きたい
死ぬ為に生きる様な暮らしの中で
ごめんよ こんな馬鹿げたこと聞かずにいてくれ
抱きしめて 愛してる
抱きしめていたい Oh それだけなのに
真夜中 盛り場 人ごみを歩いていると
日常がすりかえた叫びに 誰もが気を失う
殺意に満ちた視線が 俺を包む
持たれる心を探す人は 誰も自分を語れない
何から身を守ろうというの
何かが少しおかしい様な街で
ネオンライト クラクション 地下鉄の風
何もかも 元のままに見えるけれど
見えないかい 聞こえないかい 愛なんて口にできない
抱きしめて 愛してる
抱きしめていたい Oh それだけなのに
ねぇ ねぇ もしかしたら 俺の方が正しいかもしれないだろう
俺がこんな平和の中で 怯えているけれど
反戦 反核 いったい何が出来るというの
小さな叫びが 聞こえないこの街で
恋人達は 愛を語りあい
俺は身を粉にして働いてる
誰が誰を責められる この生存競争
勝つ為に戦う人々を
原発
広河隆一さんの『暴走する原発 チェルノブイリから福島へ これから起こる本当のこと』(http://d.hatena.ne.jp/asin/4093881901)を読んだのですが、これにいま問題となっている「除染か移住か」についても書かれていました。興味深い内容なので、以下に抜粋します。
なお、この本は、絶版状態の『チェルノブイリの真実』(1996年)に加筆したものです。抜粋した箇所は、『チェルノブイリの真実』にもあるものと思われます。
九五年一〇月にパベル・ポクトニーに会った。彼はチェルノブイリ省傘下で三〇キロ圏を管理する国際関係部長だが、次のように語った。
「今まで移住させられた市は、チェルノブイリ市とプリピャチ市の二つでした。それとウクライナでは九六の村々です。事故から一〇年たった今になって、もう一つの市を移住させることが決まりました。ポレスコエ市です。ここでは今まで移住させるか、させないかという議論が続いてきました。そしてとうとう一〇年たった今、この市の人々を移住させることになりました。水道工事をしたり、ガスを換えたり、道路を舗装したり、屋根を塗り替えたり、いろんな方策を取りましたが、それによって効果は得られなかったのです」(p.89)
ミンスクでペトリャーエフ教授に、汚染された土地では、表土を削り取ったり、鋤き返したりする方法が有効かと尋ねた。
ペトリャーエフ教授はそうした可能性を言下に否定する。
「それは無理です。除染には一〇億ルーブルもかかるのです。ベラルーシだけでも三万七〇〇〇平方キロメートルも汚染されていることを思い出して下さい。汚染の層は五センチ以上の厚さになるのです。肥沃な土地は一五~二〇センチの厚さですが、これは除去できません。その下は砂ですから。それに、汚染層の除去は、各地域同時に行わなければなりません。なぜなら、一つの土地をきれいにしても、埃が出て、それが別の土地を汚染するからです。これでは金の無駄遣いです」
三〇キロ圏だけでも、土地を生き返らそうとしたら、六億トンの表土を除去しなくてはならない。その汚染土をどうするか、ということに対しても解答が見つからなかった。しかも高濃度の汚染は三〇キロ圏だけではなく、数百キロ離れたところまで広がっているのである。
ペトリャーエフ教授は最後に、次のように強調した。
「唯一の解決策は、汚染されている地域から、すべての人を避難させることです。ベラルーシでは、多分五キュリー以上の汚染地域からも、避難させる方がいいでしょう。全員この地域から避難させ、そのあとに木を植えて森を作ること。それ以外にありません。この地域の土地は、五〇~二〇〇年間は使えません」(p.151)
なお、この本は、絶版状態の『チェルノブイリの真実』(1996年)に加筆したものです。抜粋した箇所は、『チェルノブイリの真実』にもあるものと思われます。
九五年一〇月にパベル・ポクトニーに会った。彼はチェルノブイリ省傘下で三〇キロ圏を管理する国際関係部長だが、次のように語った。
「今まで移住させられた市は、チェルノブイリ市とプリピャチ市の二つでした。それとウクライナでは九六の村々です。事故から一〇年たった今になって、もう一つの市を移住させることが決まりました。ポレスコエ市です。ここでは今まで移住させるか、させないかという議論が続いてきました。そしてとうとう一〇年たった今、この市の人々を移住させることになりました。水道工事をしたり、ガスを換えたり、道路を舗装したり、屋根を塗り替えたり、いろんな方策を取りましたが、それによって効果は得られなかったのです」(p.89)
ミンスクでペトリャーエフ教授に、汚染された土地では、表土を削り取ったり、鋤き返したりする方法が有効かと尋ねた。
ペトリャーエフ教授はそうした可能性を言下に否定する。
「それは無理です。除染には一〇億ルーブルもかかるのです。ベラルーシだけでも三万七〇〇〇平方キロメートルも汚染されていることを思い出して下さい。汚染の層は五センチ以上の厚さになるのです。肥沃な土地は一五~二〇センチの厚さですが、これは除去できません。その下は砂ですから。それに、汚染層の除去は、各地域同時に行わなければなりません。なぜなら、一つの土地をきれいにしても、埃が出て、それが別の土地を汚染するからです。これでは金の無駄遣いです」
三〇キロ圏だけでも、土地を生き返らそうとしたら、六億トンの表土を除去しなくてはならない。その汚染土をどうするか、ということに対しても解答が見つからなかった。しかも高濃度の汚染は三〇キロ圏だけではなく、数百キロ離れたところまで広がっているのである。
ペトリャーエフ教授は最後に、次のように強調した。
「唯一の解決策は、汚染されている地域から、すべての人を避難させることです。ベラルーシでは、多分五キュリー以上の汚染地域からも、避難させる方がいいでしょう。全員この地域から避難させ、そのあとに木を植えて森を作ること。それ以外にありません。この地域の土地は、五〇~二〇〇年間は使えません」(p.151)
原発
『危険な話』(一九八七年刊)より、抜粋。全く成長していない。
今からちょうど三〇年前のこの古くさい英語の文章を、いま私が日本語に訳してお聞かせします。皆さんは驚くでしょう。どこかで聞いたことがあるはずです。カビの生えた文章ですが、よく聞いてくださいよ。いいですか。
――これらの被バク量は、私たちが自然から受ける放射能一〇〇ミリレムに比べて、ほとんど変わらない安全な量です。また、医療に使われている放射能より、ずっと低いものです。高い山に登ると、二四〇ミリレムの放射線を受ける場所がたくさんあります。人間の体のなかにも、もともと放射線を出す物質が入っています。しかも私たちが目標としているのは、この数字ではなく、ネバダの実験場の外で住民が受ける放射能を、ゼロにすることです。
原子力エネルギー委員会
どうですか。この文章は、私たち日本人がいま電力会社から受け取るパンフレットそのままではないですか。最後の「原子力エネルギー委員会」を「東京電力」とか「関西電力」と置き換えて、ほら、週刊誌などのPRでよくこの文章をグラフにしたものを見るでしょう。あれは実に、三〇年前にアメリカ人がネバダの風下住民に配ったパンフレットから、そっくりそのまま内容を頂戴して絵に描いたものだったのですね。
今からちょうど三〇年前のこの古くさい英語の文章を、いま私が日本語に訳してお聞かせします。皆さんは驚くでしょう。どこかで聞いたことがあるはずです。カビの生えた文章ですが、よく聞いてくださいよ。いいですか。
――これらの被バク量は、私たちが自然から受ける放射能一〇〇ミリレムに比べて、ほとんど変わらない安全な量です。また、医療に使われている放射能より、ずっと低いものです。高い山に登ると、二四〇ミリレムの放射線を受ける場所がたくさんあります。人間の体のなかにも、もともと放射線を出す物質が入っています。しかも私たちが目標としているのは、この数字ではなく、ネバダの実験場の外で住民が受ける放射能を、ゼロにすることです。
原子力エネルギー委員会
どうですか。この文章は、私たち日本人がいま電力会社から受け取るパンフレットそのままではないですか。最後の「原子力エネルギー委員会」を「東京電力」とか「関西電力」と置き換えて、ほら、週刊誌などのPRでよくこの文章をグラフにしたものを見るでしょう。あれは実に、三〇年前にアメリカ人がネバダの風下住民に配ったパンフレットから、そっくりそのまま内容を頂戴して絵に描いたものだったのですね。
今日の夢
家は真っ暗に沈んでいた。僕らの爪に火を点すような生活も終わろうとしていた。もう動けなかった。二人で手をつなぎ、死にむかいつつあることを理解した。
だけど、最後に母は僕らを連れ出すことにした。どこへ行くのか。母のあとを、僕ら双子も身を寄せ合って歩いていく。もう帰ってくることはないように思えた。
着いたのは、立派な屋敷の前だった。母は僕らにここで待つようにいうと、裏口からその屋敷のなかに入っていった。母とこの屋敷にはどんな関係があるのか、僕らは知らなかった。
どれだけの時が流れたのか、或いは時など僕らのまわりで止まってしまったのか、よくわからない。母が出てきたとき、その姿は、もう十年以上の月日が流れたかのように見えた。僕らは、母の寂しげな横顔を見た。
それからは何が起こったのかわからない。気づくと母は消えていて、僕らはそこで気がおかしくなってしまったようだ。
その後、僕らはその立派な屋敷に忍び込んだ。母がそこにいるかもしれないと思ったからだ。だけどその屋敷の男たちに捕まり、浮浪児として管理局に送られた。母とは二度と会えなかった。
だけど、最後に母は僕らを連れ出すことにした。どこへ行くのか。母のあとを、僕ら双子も身を寄せ合って歩いていく。もう帰ってくることはないように思えた。
着いたのは、立派な屋敷の前だった。母は僕らにここで待つようにいうと、裏口からその屋敷のなかに入っていった。母とこの屋敷にはどんな関係があるのか、僕らは知らなかった。
どれだけの時が流れたのか、或いは時など僕らのまわりで止まってしまったのか、よくわからない。母が出てきたとき、その姿は、もう十年以上の月日が流れたかのように見えた。僕らは、母の寂しげな横顔を見た。
それからは何が起こったのかわからない。気づくと母は消えていて、僕らはそこで気がおかしくなってしまったようだ。
その後、僕らはその立派な屋敷に忍び込んだ。母がそこにいるかもしれないと思ったからだ。だけどその屋敷の男たちに捕まり、浮浪児として管理局に送られた。母とは二度と会えなかった。
IDコール用にご自由にお使い下さい。
http://twitter.com/waferwader/status/103779108584034304
「正しく怖がる」を児玉教授に否定されてしまった→くやしいッ、トンデモ認定したい→でも、科学的な間違いを指摘できない→仕方ない、「空気」をつくるか→「児玉さんの発言内容は怪しいところも多いです」→ / Twitter / 菊池誠(多言):… http://htn.to/uhrKAx
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/waferwader/status/103779108584034304
zatpekさんのコメント:
なんかいい加減な勘繰りだと思うけど、けっこう同意RTがついてるところを見ると、それなりの「空気」はやっぱりあるんじゃねーの?
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/waferwader/status/103779108584034304
http://twitter.com/waferwader/status/104576854526132224
waferwaderのコメント:
勿論私の妄想です。ポイントは、菊池誠さん自身が「怪しいところも多い」という印象批評で「空気」をつくっているところです。児玉教授の発言内容に科学的な誤りがあれば指摘してほしいと思っています。
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/167827
zatpekさんのコメント:
このまとめはご存知でしたか?
はい、存じております。再読しましたが、菊池誠さんが児玉教授の発言内容の科学的な誤りを指摘しているところはないようでした。以下、一部を抜粋。
http://twitter.com/kikumaco_x/status/96738603538980864
児玉龍彦教授の意見陳述が文章化されていた http://ameblo.jp/chihointokyo/entry-10968425899.html 一部理解できないところがあるのだけど、除染や法改正など提言はぜひ実現してほしい。「これは国会の完全なる怠慢であります」はその通り
http://twitter.com/kikumaco_x/status/96835477872705536
児玉教授の話の中では、やはり尿中セシウムの話はよくわからなくて、今6Bq/Lなら危険かという問題ではないと思う。論文にもlong-term low-dozeと書かれている
どうして「一部理解できないところがある」・「やはり尿中セシウムの話はよくわからなくて」から、「児玉さんの発言内容は怪しいところも多いです」になるのか、私にはわかりませんでした。
繰返しになりますが、ポイントは、菊池誠さん自身が「怪しいところも多い」という印象批評で「空気」をつくっているところです。児玉教授の発言内容に科学的な誤りがあれば、菊池さん自身に指摘してほしいと思っています。zatpekさんが、菊池さんの代弁をする必要はないと思っています。
自分は科学者でもなんでもなくて、単なる煽動家(アジテーター)なのだと、菊池誠さんがお認めになるのであれば、それはそれで構いません。私は、彼が科学者を標榜しながら、煽動家として振舞っていることを問題視しています。科学者は価値中立であるというのであれば、印象批評はやめるべきです。
最後に、はてなメッセージをずっと見ていなかったため、IDコールに気づかなくて、今日まで返信ができなかったことをお詫びいたします(はてなブックマークの「あなたへのお知らせ」は、とりこぼしが結構あるようです)。
原発
9 11 新宿アルタ前 柄谷行人 演説 - YouTube
僕は、松本(哉)さんが法政の学生だった頃、法政の教師をしていて、多分あなたが卒業する頃に、僕は法政辞めました、出会ってないと思うけど。えー、僕は、えー、なんていうか難しいことをいう物書きなので、あの、喋るのは苦手で、今日は草稿を書いてきました。それを。
えー、あの、私はこの四月から、反原発のデモに参加しています。このアルタ前にも、6月、6・11デモで参加しました。で、あの、私がデモに行くようになってから、色んな質問を受けます。それも大概否定的な質問です。ま、その一つは、デモで何が変わるのか、デモで社会を変えられるのかというものです。で、私はこう答えます。勿論、デモで社会を変えることはできる。確実にできます。なぜならば、デモをすることで、デモをする社会をつくれるからです。
えー、考えてほしい。去年の……、今年の3月以前に、日本には、沖縄を除いて、デモはほとんどなかった。それがいま日本全国、今日でも多分百か所以上でデモが行われています。その意味で、日本の社会が少しは変わった、これは明らかです。
たとえば、福島原発の事故のようなことが、ドイツやイタリアで起こればどうなるか。或いは、韓国で起こればどうなるか。巨大なデモが国中に起こるでしょう。しかし、それに比べれば、日本のデモは異様なほどに小さい。しかし、それでもデモが起こったことは凄い。救いであると私は思います。
デモは、主権者である国民にとっての権利です。デモができないなら、国民は主権者ではない。たとえば韓国では20年前までデモができなかった。軍事政権があったからです。しかし、それを倒して国民主権を実現した。デモによって倒したのです。そのような人たちがデモを手放すはずがありません。
では日本には、なぜデモが少ないのか。なぜそれは、変なことだと思われてるのか。それは、国民主権を、自分の力で、闘争によって獲得したのではないからです。日本人は戦後、国民主権を得ました。しかし、それは敗戦によるものであり、事実上占領軍によるものです。つまり自分で得たのではなく、与えられたものです。では、これは自分自身のものにするにはどうすればいいか。それはデモをすることです。
私が受けるもう一つの質問は、デモ以外にも手段があるのではないか、というものです。確かに、デモ以外にも手段があります。そもそも選挙がある。その他さまざまな手段があります。しかし、デモが根本的です。デモがある限りその他の方法も有効になりますが、デモがなければそれらは機能しません。今迄と同じことになります。
更に私が受ける質問は、このままデモは下火になっていくのではないか、というものです。戦後日本には、幾度も、国民全国的規模なデモがありました。しかしそれは長続きしなかった。今回のデモもそうなるのではないかというわけです。確かにその恐れはあります。
マスメディアでは、既に福島の事故は片付いた、直ちに経済復興に取りかかる、取り組むべきだというような意見が強まっています。無論そんなことはない。福島では何も片付いてはいないのです。しかし、当局やメディアは片付いたかのようにいっている。最初からそうです。彼らは最初から事実を隠し、大したことがなかったかのように装ってきたのです。ある意味でそれは成功しています。多くの人たちがそれを信じている。信じたいからです。そしたら、今後に反原発のデモが下火になっていくことは避けられない、というふうに見えます。
しかし、違います。福島原発事故は片付いていない。今後も直には片付かない。むしろ今後に、被爆者の症状がはっきりと出てきます。また福島の住民は、永遠に郷里を離れることになります。つまり我々が忘れようとしても、また実際に忘れても、原発のほうが執拗に残る。それはいつまでも続きます。原発が恐ろしいのはこのことです。それでも、人びとは大人しく政府や企業のいうことを聞いているでしょうか。そうであれば、日本人は物理的に終わりです。だから私はこう信じています。第一に、反原発運動は長く続くということです。第二に、それは原発にとどまらず、日本の社会を根本的に変える力となるだろうということです。
皆さん、粘り強く戦いましょう。以上です。
僕は、松本(哉)さんが法政の学生だった頃、法政の教師をしていて、多分あなたが卒業する頃に、僕は法政辞めました、出会ってないと思うけど。えー、僕は、えー、なんていうか難しいことをいう物書きなので、あの、喋るのは苦手で、今日は草稿を書いてきました。それを。
えー、あの、私はこの四月から、反原発のデモに参加しています。このアルタ前にも、6月、6・11デモで参加しました。で、あの、私がデモに行くようになってから、色んな質問を受けます。それも大概否定的な質問です。ま、その一つは、デモで何が変わるのか、デモで社会を変えられるのかというものです。で、私はこう答えます。勿論、デモで社会を変えることはできる。確実にできます。なぜならば、デモをすることで、デモをする社会をつくれるからです。
えー、考えてほしい。去年の……、今年の3月以前に、日本には、沖縄を除いて、デモはほとんどなかった。それがいま日本全国、今日でも多分百か所以上でデモが行われています。その意味で、日本の社会が少しは変わった、これは明らかです。
たとえば、福島原発の事故のようなことが、ドイツやイタリアで起こればどうなるか。或いは、韓国で起こればどうなるか。巨大なデモが国中に起こるでしょう。しかし、それに比べれば、日本のデモは異様なほどに小さい。しかし、それでもデモが起こったことは凄い。救いであると私は思います。
デモは、主権者である国民にとっての権利です。デモができないなら、国民は主権者ではない。たとえば韓国では20年前までデモができなかった。軍事政権があったからです。しかし、それを倒して国民主権を実現した。デモによって倒したのです。そのような人たちがデモを手放すはずがありません。
では日本には、なぜデモが少ないのか。なぜそれは、変なことだと思われてるのか。それは、国民主権を、自分の力で、闘争によって獲得したのではないからです。日本人は戦後、国民主権を得ました。しかし、それは敗戦によるものであり、事実上占領軍によるものです。つまり自分で得たのではなく、与えられたものです。では、これは自分自身のものにするにはどうすればいいか。それはデモをすることです。
私が受けるもう一つの質問は、デモ以外にも手段があるのではないか、というものです。確かに、デモ以外にも手段があります。そもそも選挙がある。その他さまざまな手段があります。しかし、デモが根本的です。デモがある限りその他の方法も有効になりますが、デモがなければそれらは機能しません。今迄と同じことになります。
更に私が受ける質問は、このままデモは下火になっていくのではないか、というものです。戦後日本には、幾度も、国民全国的規模なデモがありました。しかしそれは長続きしなかった。今回のデモもそうなるのではないかというわけです。確かにその恐れはあります。
マスメディアでは、既に福島の事故は片付いた、直ちに経済復興に取りかかる、取り組むべきだというような意見が強まっています。無論そんなことはない。福島では何も片付いてはいないのです。しかし、当局やメディアは片付いたかのようにいっている。最初からそうです。彼らは最初から事実を隠し、大したことがなかったかのように装ってきたのです。ある意味でそれは成功しています。多くの人たちがそれを信じている。信じたいからです。そしたら、今後に反原発のデモが下火になっていくことは避けられない、というふうに見えます。
しかし、違います。福島原発事故は片付いていない。今後も直には片付かない。むしろ今後に、被爆者の症状がはっきりと出てきます。また福島の住民は、永遠に郷里を離れることになります。つまり我々が忘れようとしても、また実際に忘れても、原発のほうが執拗に残る。それはいつまでも続きます。原発が恐ろしいのはこのことです。それでも、人びとは大人しく政府や企業のいうことを聞いているでしょうか。そうであれば、日本人は物理的に終わりです。だから私はこう信じています。第一に、反原発運動は長く続くということです。第二に、それは原発にとどまらず、日本の社会を根本的に変える力となるだろうということです。
皆さん、粘り強く戦いましょう。以上です。




