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タイトル変更 - 石のベンチとテーブル
http://yanoz.hatenablog.com/entry/2016/07/24/030227
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石岡良治『視覚文化「超」講義』

Eテレ「哲子の部屋」に石岡さんが出た時話していたのは、この本の要約だったのだな、と思い出しながら読んだ。

映画から、ネット動画につながっていく、映像を楽しむあり方の系譜をときほぐしながら、過去の蓄積が併置されて消費される現状を踏まえて、理論的考察と、ジャンル横断的な作品論を交えつつ、積極的に映像表現と向かい合うための姿勢を提案する紙上講義、といったところ。

批評理論、哲学、人類学など幅広い議論を踏まえて、映像文化について論じるための文献を網羅的に紹介していて、いろいろ勉強になる。

二次大戦後のアメリカ社会と映画産業について論じながら、メロドラマ映画の再評価がなされた系譜を、ダグラス・サークから、ファスビンダー、トッド・ヘインズへ、と辿るあたりの論述がコンパクトかつ密度が高いと思われ、自分が見落としていたあれこれを教えてもらった。

ガジェット、ホビーといったテーマについては、話題提供としては興味深いけど、議論としては素描段階といった印象。

いずれにせよ、本書が示す、アートとエンタテインメントという区分そのものを、レギュレーションの相違によるものとして相対化しながら、情報過多の時代に、単なる消費に終わらない生き方につながるような、表現、文化との付き合い方を模索するという姿勢は、読む人を勇気付けるものがある。

具体的な指針として今後どこまで通用するものかは別として。
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アラン・バディウ『ベケットー果てしなき欲望』

ドゥルーズのベケット論では、QUADにそれなりの紙幅を割いて論じていたと思う。わざわざ、クレイグの超人形論まで参照して、演劇史的な展望を踏まえるという念の入れようだったのが印象深い。テレビ作品もしっかり分析している。

それを考えると、QUADに言及してないのが、いかにもバディウというところなのかもしれない。

バディウ自身の演劇との関わり方も、ドゥルーズと比べて、古典的というか、文学としての戯曲寄りなんじゃないかなという印象なきにしもあらず。まあ、そんなによくは知らないけど。

ともあれ、バディウは、ベケットの作品を、文学として、根底にあるポエジーから位置付けようとする。

詩作品、とりわけ、Mirlitonades にしっかり言及しているところが、バディウの読みでは印象的で、ドゥルーズの『消尽したもの』でほ、その辺、どうだったかほとんど記憶にない。また今度確かめとこう。

というか、バディウはドゥルーズのベケット論に言及してなかったと思うけど、そこはご愛嬌という感もある。

あくまで自身の読みの経験に根ざした論述だからこそというところなんだろうけど、まあ、バディウのドゥルーズ論自体に、ベケットに対する姿勢の違いも見えているんだろうと思う。

邦訳の解説には、バディウとベケットって事でもとある論者が本を出していると紹介されていて、英語圏でのバディウへの注目具合がわかるというもの。

そんなところも踏まえて、ドゥルーズと突き合わせて読んでみたいところ。
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山内志朗『「誤読」の哲学』

ドゥルーズやフーコーの思想史への関与には誤読があると指摘しながら、誤読こそが哲学を展開させるものだとそこに積極性を認めつつ、対象という概念の系譜を中世哲学にまで遡って、概念の変容する姿に、哲学的な問題の在り処を探そうとする本。

直近の研究動向を参照しながら、書誌的に系譜を明確にできる範囲で思想史を記述するという一面もありつつ、著者自身の思想的自叙伝であり、かつ、現在進行形の思索日記でもあるというような、不思議な筆致で、時折繰り返される、過去の思想家に線香をあげるという、文章上の振る舞いのあり方が、研究に人生を捧げる一つのあり方が如実に露呈されるというような、異様な印象を残す。

ドゥルーズを読んだことが、著者の研究人生をどう左右したのか、といったあたり、単なる思想史の本ではなくて、生き残りの証言という感じでもある。

ざっと目を通しただけで、とても論旨を把握できたとは言えない、晦渋な、行きつ戻りつする論述なのだけど、思想史というのが、教科書的に図式化出来ない藪道のようなものの絡まりあいであって、道なき道を彷徨うように本の山と格闘している人とはどういう人か、といったことは、分からせてくれたように思う。
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ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』

市場や官僚制によって日常は支配されるがままになっているわけではなく、日常生活の中にある予測不可能なものに創造性があるよ、と語る本。

著者は歴史家だけど、フーコーとブルデューを突き合わせながら理論的考察がなされたりもしている。
フランス現代思想を踏まえた著作が、70年代の終わりにどんな風に書かれていたのか、良くも悪くも、うかがえる。

エクリチュールやディスクールという用語がカタカナで頻出したり、デリダが援用されたりしているけど、書かれる言葉が体制化につながる、そこを逃れる文字以前の口頭の文化により豊かなものを見る、といった図式が描かれていて、思想としてはわりと単純な反近代のようにも思える。

今となってはいささか牧歌的にも見える。

ちょっと退屈するところもありつつ、斜め読み気味ながら通読できたのは、いかにもフランス的な、ちょっと詩的な叙述の中に、いろいろ喚起するものがあって、面白かったから。

歴史の底にうごめく語られざる不可視の実践の塊みたいなものが浮かび上がってくるみたいな。

読み始めた時は、パリの同時多発テロが起きる前だった。

ニューヨークの、今はなき貿易センタービルに登る経験の叙述から始まる都市論の章があったりもする。

その傍らに、死や事件を制度の外に置こうとする社会のあり方を、具体的な場面から語る章があったりもする。

余白に、同時多発テロについて語る余地が残された本だとも思える。

余談だけど、鎌田慧『自動車絶望工場』の仏訳が参照されていて、あの本仏訳されてたのか、と、ちょっと驚いた。



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菅原潤『弁証法とイロニー』

補足2

梯が批判するのは、三木清の「社会的身体」概念。(p.81-)

「マルクス的アントロポロギーは、....たんに身体性に結びつく「感性」ではありえない」
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菅原潤『弁証法とイロニー』

補足1

日本浪漫派について、
雑誌の『日本浪漫派』にあたって、保田与重郎と亀井勝一郎との確執を語るあたり興味深かった。

雑誌の主導権を、亀井勝一郎が握ってゆくのを、保田は快く思っていなかったという話。

大衆概念において、保田と亀井の相違が明らかになる。

奴隷無しのギリシャ文化を理想だと単純に語ってしまえる亀井は、通俗的であるところで、大衆を操作可能と考えている。

それに対する、知識人自体の大衆性を語る、保田のイロニー。
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菅原潤『弁証法とイロニー』

副題は、戦前の日本哲学。

田辺元の弁証法理解を検討し、それが保田与重郎のイロニー理解とつながることを、三木清のパトス論を媒介にして論じるといった趣旨の本。

そこで、田辺のフランス象徴詩への関心と、保田に対する萩原朔太郎の関係を重ね合わせると、ボードレールのデカダンスと、大衆文化という論点が浮かび上がる、という。

三木清が保田与重郎に与えた影響といった話だとか、西田、田辺の弟子筋にあたる京都の哲学者たち、例えば船山信一の田辺批判といった思想史的エピソードが紹介されるのは面白かったし、生田長江のニーチェ翻訳が、保田与重郎に傾倒していた後期の萩原朔太郎に影響を与えたという話も、知らなかった自分には興味深かった。

著者が西田左派と呼ぶ梯(かけはし)明秀の、西田哲学を介したマルクス理解からの三木清批判にそれなりの紙幅が割かれていて、三木清による、人間の基礎的経験の自己了解というハイデガー風の構図の中で弁証法という用語を解釈する哲学が、マルクス主義的には、階級闘争を軸とする唯物史観を無効化するものに他ならず、三木清的な身体論が、ファシズムにつながる危険を持つという梯の指摘が明解で、ここから読み取れる指針は、現在形で有効かと思える。
自然史的過程という梯の思想にも興味を持った。

ただ、本書の全体としては、三木清から保田与重郎、萩原朔太郎へとつながるイロニー論の系譜と、田辺元とマルクス主義との相互批判に関わる弁証法という論点との相関についての議論は、素描の段階にとどまるもので、日独を通貫する思想史的な議論としても、誰が何を読んでいたか、何に言及しているか、といった指標のみで話が終始していて、単純な図式を描くのみと思われ、あまり説得力を感じさせなかった。

田辺のシェリング受容など、興味深い論点だけど、本書の説明では、概括的すぎてちょっと物足りないという印象。

そもそも弁証法という用語について何が理解されるべきなのか、本書の中だけでは踏み込んだ解明がなされず、判然としないところがあって、注釈が当てられる本文を手元に置かないと、論旨を検討できない感じ。

イロニーという用語についても同様で、イロニーという用語を使った論者を羅列しただけといった感がある。

あらかじめ思想史的な知識を持っていないと、読み進められない類の本。

それはともかく、著者が参照する、最近の思想史的研究の動向など、知らないことが多かったので、興味を持った。

服部健二氏、小野紀明氏、細谷昌志氏、氷見潔氏などなど。

ハイジック編『日本哲学の国際性』
杉田弘子編『漱石の『猫』とニーチェ』
あたり、いずれ読んでみたい。


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鈴木大介『最貧困女子』

家族にも、地域にも、社会保障にも頼ることができない、貧困の中でセックスワークの底辺に埋没していく女性たちを直接取材したルポ。

知的障害を抱えていたり、親からの虐待を生き抜いてきたりした女性たちの悲惨な状況が、直接に描かれる。

セックスワークが多様化し、状況が変化する中で、家出少女がセックスワークに読み込まれてゆく状況とは2010年代においてどのようなものなのか、なぜ既存の福祉制度は、家出少女を救えなかったのか、現場から明らかにする。

児童館の運営の仕方が、逆に孤独な子供を追い詰めていなかったか、福祉に関わる大人よりも、風俗産業に関わる大人の方が、孤独な子供たちにとって、馴染みやすいのではなかったか、という指摘は、福祉というものの根本から考え直すように促すし、法を外れた、セックスワークの周辺に形成される人脈が、一種のセーフティネットになっている様が描かれて、社会の見方を揺さぶってくる。

貧しくとも、仲間との互助的な関係によって、幸せな生き方をしている人々が増えていることや、昼間会社に勤めなごら、副業として、むしろ誇りを持って週に一度のセックスワークを行うような女性が増えているという状況を描きながら、そういう状況が、いわゆる自己責任論を後押しして、逆にますます風俗産業の底辺にある問題を見えなくし、語りにくくしている。

著者が名付ける「最貧困」の問題は、そこにあり、それを目に見えるようにすべきだ、という著者の姿勢は、救いにくい人々に対する、それでもなんとかできないかという思いに貫かれたもので、セックスワークや貧困を、攻撃の標的にしないようにするべきという著者の態度は、センセーショナルな話題を提供する事で人の弱みを攻撃しかねないような類の本とは全く違う。

そこでキーワードになるのが、肌触りの良さ、という言葉。

恋愛に依存してゆく少女たちを救うのは、自立することを勧める事ではなく、自滅的ではない恋愛を実現する手助けではないか、という提言も、制度や運動に対する批判として、現場をよく知る人だからこそできるものなのだと思う。

親からの虐待を生き抜いてきた人が、安定したパートナーを得たときに、ついつい相手を怒らせて試すような行動に出てしまうという、愛着を育むことができない障害についての描写が、切なくもある。

容姿も恵まれず知的な障害に虐待による愛着障害が重なって、貧困の底で自滅するような生き方をしてしまう人について、相手にするのも面倒としか思えないという感触は、取材相手と密接に関わり合うなかから語られる印象なのだが、その救い難さに対してこそ、手が差し伸べられなければならないはずだ、という信念から、著者自身、命を削って書いた本なのだということが、ところどころ息が切れ切れで、文体が崩壊する瀬戸際で書かれていることからもうかがえて、その後著者が脳梗塞に倒れたというのも、ハードな取材と心を苛む執筆による無理が重なったのではないかと思わせるものがある。


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大野裕『はじめての認知療法』

認知療法の基本的な考え方を理解し、自分の思考を振り返って書き出すワークシートなどを使い、セルフケアできるように書かれている。

つい悪い考えが浮かぶというような心の働きを自動思考と呼び、自動思考を生み出す心のクセをスキーマと呼ぶ。

スキーマを調整することで、鬱な気分への傾斜を改善したり、悪い思い込みから脱して、現実的な対応ができるようになる。

こういう基本が丁寧に説明されている。

それも、心が弱っている人が、読みながら立ち直れるような、柔らかい語り口で書かれていて、具体的な事例を通してわかりやすく、心のあり方を分析するシートの使い方なども、記入例を示しつつ、使ってみようと思えるようになっている。

人間関係の悩みなどを改善するヒントとしても読める一冊。
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佐藤弘夫『偽書の精神史』

中世の日本では、聖徳太子が予言した通りに事件や戦乱が起きている、というような偽書が膨大に流通していたという。

その背景に、古代とも、近世とも違う、中世という時代の信仰世界があったと指摘する一冊。

鎌倉新仏教と、それ以前から成り立つ日本の仏教とが、中世においては、超越的な仏と直接交わるような信仰体験を重視する点で共通していたという指摘は、なるほど精神史的な描像。

(本覚思想と新仏教の類縁性の源として、神仏冥界が渾然として生活が成り立つ中世的なコスモロジーが見出される)

その背景に、霊的な世界との繋がりを国家の権威が独占しようとした古代と違って、国家体制が解体して、誰しも神や仏の声を夢に聞くことが出来た中世の精神世界があった論じる。

一元的な国家制度が無く、諸勢力が入り乱れているところに、近世や古代と違う中世のつかみにくさがある、としながら、偽書を生み出した土壌に、中世を特徴付けるものを見いだすという論旨。

わらしべ長者も、こういう中世的な精神を寓話にしたものだったとのこと。なるほど。

法華系の信徒の方が推薦していたのを見かけて読んで見たが、たしかに日蓮についての記述が厚い。

例えば、日蓮に託して後に書かれた偽書がどのように生まれたのかをその背景から理解しようとする、といった話は、歴史的な真偽を批判するだけでは終わらない意義があるので、教学論争という形で党派の対立に終始するような姿勢を乗り越えて信仰を掘り下げることにつながるというわけだった。

親鸞や日蓮が、仏から使命を告げられたと確信できた時代精神というのがどういうものだったか、少し感触がつかめた気がする。

本地垂迹的な世界の見方が中世的に展開したとき、どのような時代を成立させていたのかという描写も興味深いし、中世に成立した神道理論の背景に、伊勢神宮内の勢力争いがあった、という話なども、伝統に対する批判的視座を養う上で有益な読み物だと感じる。
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清水潔『騙されてたまるか』

最近新潮新書づいてますが、副題は、調査報道の裏側。

写真週刊誌のカメラマン、記者、その後テレビにメディアを移して報道を仕事としてきた著者が、自身の取材経験を語る一冊。

プレスリリースや記者会見などを記事にまとめる発表報道とは違う、現場で地道な取材を重ねて隠れた事実を世間に訴える調査報道との違いを、著者は、「小さな声を聞くこと」と言う。

扱われた事件と、その真実を解き明かす取材プロセスとの描写が、鮮烈で、まあ刑事ものドラマのようにスリルにあふれるし、誤報や冤罪に巻き込まれた人に直接取材した親身な描写などは、ため息や憤りなしには読めないもので、評判になるのも納得する。

桶川ストーカー事件や足利の幼女殺害事件など、著者の取材が無ければ、真相が闇に葬られたままになっていたのだろうもので、こんな地道で精力的な取材を立て続けにするジャーナリストが居たのか、と感銘を受けずにはいられない。

他に、ブラジルに逃亡した強盗犯を追跡する話、三億円事件の犯人と名乗り出た詐欺師の足取りを明らかにする話、北朝鮮拉致事件の真相を追う話、特攻隊員とその婚約者の生涯を辿る話など、など。

報道の意義を訴える真面目な本でもあるけど、推理小説顔負けなくらい、続きが読みたくなる本でもある。
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大井玄『呆けたカントに「理性」はあるか」

認知症高齢者に、胃ろうを希望するか質問すると、嫌ですね、と答えるという。

その判断には合理性があって、尊重するのが倫理的だ、という主張が、この本の軸となっている。

それは良いとして、カントやデカルトを引き合いに出しつつ、身体を離れた概念的な思考にのみ合理性を認める立場を批判して、比較認知科学をふまえつつ、進化の歴史を背景に、情動的に働く身体的な判断に合理性があると主張する議論は、理性という概念の再考としてはそれほど精緻なものではなく、20世紀の戦争犯罪を論拠に、身体的な情動を軽視した理性の暴走を語るのは、それ自体、安易な印象操作と言うべきかとおもう。

理性という概念の読み替えがなければ、認知症高齢者の判断に合理性があると認める社会は実現できない、という見通しからこのように書かれているのだろうけど、戦略として、理性を読み替えるというのが、唯一で不可避な道ではないだろうと思うし、認知症高齢者の判断を尊重する姿勢を確立するのに、デカルトやカントの理性概念を退ける必要は必ずしもないだろうと思う。

著者自身が、認知症高齢者を含めた終末期医療に携わってきた医師。

その立場から書かれているので、胃ろうをめぐる高齢者医療の現場の話には、心を打つものがあり、晩年のカントについての伝記的な記述から認知症だったのだろうと推察する結びにも、臨床家ならではの説得力があって、読み応えあった。


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吉村昇洋『心が疲れたらお粥を食べなさい』

曹洞宗の僧侶で臨床心理士でもある著者が、永平寺での修行経験や、自身で開いている精進料理教室での経験を踏まえて、調理や食事を丁寧に行うことが、禅の修行に通じることを語り、仏教の思想的なコアの部分を示そうとする一冊。

ニー仏こと魚川祐司さんが勧めていたので読んでみた。

効率よい調理の仕方だとか、具体的なアドバイスも有効だけど、永平寺の修行風景がとても印象的で、道元が中国の寺で、食事する事も修行の一貫であると目の当たりにして、日本に体系的に導入した調理と食事の作法が、道元の著作を典拠としつつ今に生きていて、その修行のあり方が生み出す美しさには、仏道を体現するものがあると情景として示そうとする語りには、確かに説得力があり、禅寺というと理不尽な暴力が横行する場所というイメージをいつの間にか植え付けられていた自分には見えていなかった事に気づかされた。

食事をめぐる、歴史的な変化だとか、いただきますの挨拶で合掌するという慣習が、昭和に入ってから日本社会に広く定着したものであることに触れる一節もあって、非合理的なものをそれとして認めながらも合理性や批判精神をしっかりと手元に置いているというようや、僧侶でもあり大学で教えている立場でもある著者の姿勢が垣間見える語り口も面白い。
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高本眞一『患者さんに伝えたい医師の本心』

妻を亡くした経験から語り起こされる、患者とともに病気を克服すべく努力するという医師のスタンスを語る本。

東大医学部卒で、アメリカ留学を経て、心臓血管外科の最先端で新しい治療法を開拓していた著者が、上司への進言をきっかけに左遷されたが、それが瓢箪から駒で、左遷先で患者ととことん向き合う大切さを学ぶことができた、というエピソードも印象深い。

のちに東大医学部の教授として、学生本意、患者本意の教育体制を目指したカリキュラム改革を手掛けた話や、三井記念病院の院長となって救急医療の体制を改善したり、地域の開業医との連携体制を確立するために先頭に立って取り組んだ話など、理想をしっかり立てた上で、現場に立ってリーダーシップを発揮した成果が具体的に語られていて、面白く、感銘を受けた。

困難な状況において、政治力を発揮しつつ、関わる人たちをより良い状況に導いていける人の仕事ぶりって、こんな風なものか、と思う。

そういう姿勢が、警視庁のミッション策定に、公安委員として携わった場合や、エホバの証人の信者に対して、輸血を受け入れるように説得し続けている、という場面にも貫かれている。

新書としては、このタイトルが売れるのかもしれないけど、内容としては、タイトルが与える印象よりも、もっと筋の通ったもので、社会体制の中枢で有意義な改革を成し遂げられる人のモチベーションがどのようなものかを縦横に語っていて、立脚点は確かに一人の医師としての行動なんだろうけど、一人の医師という立場以上の働きぶりが、むしろこの本の主眼のように思えた。

という意味では、良い上司、良いリーダーであるとはどういうことか、というテーマの本でもあるよな、と思う。

名指ししないけど、分かる人には分かる、辛辣な批判もなされていて、結構骨のある本でもある。

本をまとめるまでに、編集者との真剣なやりとりが語られるあとがきは、これだけでも読み応え十分なもの。

ちなみに著者の苗字は、正確にはハシゴの高。



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今谷明『室町の王権』

副題は、「足利義満の王権簒奪計画」。

日本史の中で天皇制を覆す可能性が最も高かったのが足利義満である、という観点から、天皇家が握っていた権威をどのように周到に奪って行ったか、義満の急死によってその計画が頓挫したあと、天皇家の権威がどのように回復されたか、江戸時代まで視野に入れて、武家と天皇家の関係性を論じている。

新書だけど、論じ方は本格的な歴史書だと思う。説明抜きで日本史の用語が用いられるので、ある程度予備知識が無いと、馴染みづらいかもしれない。

二条良基が義満をバックアップして宮廷のしきたりやなんかを教え込んだといったあたりの話や、宮廷での儀式の詳細が描写されるあたりの筆致は読み応えがあり、明の使節を迎える時の有様なども具体的に語られて面白かった。

義満が進めた中央集権化に、後円融が抵抗する経緯も、人間ドラマとしてコンパクトに語られ、興味を持った。

公家よりもむしろ、武家の側に、天皇家の権威を保とうとする理由があったというあたりも、制度や経済的な状況と、勢力の拮抗から、歴史が動いて行く様子を描いて、鮮やかな議論だった。

西洋史の参照の仕方にも独特のアクセントがあって、あくまで世界史の中で日本の歴史を捉えようとする著者の歴史観とか、立場を感じさせる。

天皇家の権威を回復する上で、後花園が果たした役割から、戦国時代の天皇家の権威が、幕府とは別の回路で保たれたという経緯についての論述も、明晰で印象深い。

歴史家として多作な方のようなので、他の本も読んでみようと思う。
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土横手雅敬『日本史の快楽』

著者(うわよこて まさたか)は、京大出身の、中世史家。90年代半ばに週刊誌に連載されたコラムをまとめたもの。

中世史関連の某新書に、参考図書として挙げられていて、少し気になったので読んでみた。

タイトルは、編集者が連載にあたって付けたものとか。あんまり内容とは関係ない。

中世史にちなむ人物やエピソードを綴る前半と、明治以降の中世史をめぐる教育事情などを論じる後半に分かれる。

歴史家の立場から、人生観や宗教観に触れるエッセイとして、好感を持って読んだ。

慶滋保胤が鴨長明に影響を与えた所以を語る文書など、簡潔にして鮮明であり、散文としてとても素晴らしいものだと思った。

崇徳と後鳥羽、二人の上皇が残した念願の相違を語る文章も、日本の仏教的な世界観の厚みの中に、見事に対照されていて、ドラマチックだ。

太平記の親王の読み方について、戦前の教育が戦後の研究によって訂正され、それを踏まえて大河ドラマが作られたところ、戦前世代から抗議が殺到したというエピソードから、戦前の歴史学と歴史教育の系譜をときほぐす話題なども、それだけで新書一冊になりそうな情報を端的にまとめている。

後白河法皇の大仏開眼のエピソードなども印象深い。

図書館で、講談社の単行本で読んだが、2002年に角川ソフィア文庫で再刊されたというのも納得の好著。











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尹雄大『体の知性を取り戻す』

思った以上に良い本だったなという読後感。

武道の経験を踏まえて、前例の無い状況をしなやかに向き合いながら生きるというのはどういう事か説いてゆくような本。

実感というまやかし=あえてやっているという余計な認識、だとか

生きていることから露出する謎、生きようとする限り浮かびあがる謎への問いかけが、あかりとして胸に灯る、とか、

良いフレーズが散りばめられて読みやすい。

甲野善紀の稽古に出ていた話とか、光岡英稔氏に韓氏意拳を学ぶ話は、とりわけ臨場感たっぷりに語られて読み応えある。

結びは駆け足な感じで、全てが語られて無い感も残るし、社会や制度や文化を退けて赤子に戻ろうという二元的な論の進め方はちょっと性急過ぎる気もしたけど、新書としてはこれで十分とも思われ、著者の他の著作に、この思索の続きを見届けたいと思わされた。
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北村淳『写真で見るトモダチ作戦』

海兵隊を中心に、トモダチ作戦での米軍の動きを、米軍が公開した写真を多数用いながら、時系列で整理。合わせて、海兵隊のような、水、空、陸の併用戦(揚陸艇とヘリで海から陸にアプローチするような)が可能な部隊の必要性を訴える本。

キャプションに、米軍兵士や士官の個人名が律儀に記されているのが印象的。著者は、米軍関係者とも親交が厚いとのこと。なるほどというところ。

アメリカ海兵隊に日本がいかに依存しているのか、海兵隊が日本を守る意欲にあふれている事のアピールもなされていて、一定の説得力を感じるけれど、著者の立場によるバイアスを差し引いて読むべきかもしれない。


歴史を振り返ってトモダチ作戦を総括する末尾の論考のなかで、日露戦争では、秋山真之ばかり有名になってしまったが、佐藤鉄太郎の方が重要、という指摘をしていて、KAIGUNってアメリカの研究書でも大きく扱われているのは佐藤鉄太郎だ、とか言及してるのが興味深い。著者のスタンスがよく示されている一節かと。

日本に駐留、展開している米軍のあり方を、きちんと知っておきたいと改めて思った。

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中村敦彦『崩壊する介護現場』

介護現場の悪い話をルポしているけど、一面的で、興味本位で話題を選んでいる印象が残る。

私怨によると思われるバイアスも感じる。

現場の深刻な問題の一面をえぐっているところはあるので、前向きすぎな本と合わせて読むと良いかなと思う。

困難ななか、うまく行っている現場も少なからずあるはずなので。

介護保険制度の問題点についても、営利企業の問題点など、当たってる所はあるとは言え、全体としてはちょっと短絡的な断罪かと思う。取材が中央官庁に及んでなくて、制度の変遷した理由について触れないので、考察が浅い。

ただ、美容師や飲食店のように、独立志向の人がもっと居て良い、その方が地域密着サービスができるはず、という観点は面白い(あとがきなど)。

なんでそういう方向に誘導する政策が実現できない結果になったのか、という理由を分析できていないので、提言としては、なんか無責任で投げやりなものになっているのが残念。

個人タクシー制度とかを念頭に比較してみるといろいろ見えてくるかも、と思う。

著者は裏社会とのつながりに言及していたりもするけど、それを考慮すると、業界大手の社長に関する性的スキャンダルについて、具体的な証言を書いているというのは、弱みを握っているんだと誇示している感もある。

高齢者介護の世界は、相続とかを巡るトラブルとも隣り合わせだったりするので……いずれにせよ、こういうスタンスの著者が介護の世界に影響力を振おうとしていて、介護という仕事について、ネガティヴな発言を繰り返している事については、その背景も含めて、より慎重に注視しておくべきかもしれない。








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