yanoz はてなハイク市民 (銅 71日)

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『国家』(プラトン)

あらためて読んでみて、第一巻、第二巻での話の展開を丁寧に見ておく必要がある気がして来た。

ソクラテスが、正義を論ずるにあたって、国家の成り立ちを考えてみよう、と話を始めたあと(2巻)最初に到達するのは、分業しながら、貧困や戦争を避けるために、「子どもの数を分不相応に増やすことのない」国家、というモデルだった(372C)。

そこで、グラウコンが、それではみすぼらしすぎる、という風に口を挟んで、ソクラテスは、最小限で満足するような「健康な国家」だけではなく、「熱でふくれあがった国家」も考察してみよう(372E)と話を始める。

以降の議論は、この分岐の先にある。


あれ、そうすると、健康な国家には、哲学者の必要も出番も無い、ということになりそうな。
そのあたり気にしながら読み進めてみたい。

それから、最小限の健康な国家のイメージが、演劇論でルソーが描く理想の国家(共同体)のイメージに重なりあうようにも思えて、そこも興味深い。




藤沢令夫訳(岩波文庫)で読んでいる。近年版がかわって、同じ岩波文庫でも頁付けが異なっているので、ステファヌス版で参照する。
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『時間』(吉田健一)

「時間がたって行くのを知るのが現在なのである」(p.17)

講談社文芸文庫で読んでいるのでその頁数。

「過去とか未来とか」を幻影と呼んでいる。「死は恒久的な現在」とまで言う。

「過去であることになっているものに我々がいればそれが現在」(p.22)

現在を軸にした時間論と言う事ができそうで、だから、起きていることに価値がおかれる。
朝起きるということから一冊がはじまる理由がこのあたりにあるのだなと思う。
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『時間』(吉田健一)

「冬の朝が晴れていれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日という水のように流れるものに洗われているのを見ているうちに時間がたって行く。」

これが最初のセンテンスで、この一冊の全てがすでにここに書かれているような本ではないかと思う。最初の章(Ⅰ)を読んだ限りでは、このセンテンスに対する注釈のようであり、文章は何度もこの一節に立ち戻る。

ところで、たまたまメルロポンティ『知覚の現象学』の時間についての章を見ていたら、ruisseau という単語を使っていた。

La salle ruisselait de lumiere.

(↑アクサン省略)

辞書を引くと。流れるという意味と、(光に)あふれるという意味が重なり合って示されている単語で、『時間』の冒頭のことを思い出させた。
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『ドイツ 冬の旅』 神品芳夫(著)

この本を読んだきっかけは次のブログ記事で
http://angel.ap.teacup.com/unspiritualized/148.html
「たとえばエッセイ『ドイツ 冬の旅』(1985)においてスローターダイクの本質をさらりと的確に見抜くあたりなど戦慄を禁じえない。」
戦慄するかどうかは別にして、ドイツの反戦デモとスローターダイクの関わりに言及するあたりのみごとな筆致と冷静な判断は、読まないと損。
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『ドイツ 冬の旅』 神品芳夫(著)

1983年から1984年にかけて、ドイツ文学研究者がドイツ語圏に滞在した記憶をもとに書かれた論考。

政治との関わりにも軸足をおきながら、当時のドイツ文化のアクチュアルな状況を、個人的な関わりも含めて描いていて、本を読む楽しみを久しぶりにこころゆくまで味わったなと思った。

ハイナー・ミュラーとかファスビンダーといった名前が、再婚カップルとか、老夫婦の誕生日を語る文脈であらわれてくるあたりが、この本の独特の魅力で、芸術が生活のなかにどのように存在しているのかが彷彿とする。

この本のねらいを、著者は「変わることのない川床とめまぐるしく変転する水面との中間をなす流れの具合を吟味して、その水圧や流れの方向をはかってみる」ことにあると、あとがきに記していて、まさにそのねらいが達成されている。ある時代をその現在形でとらえながら、東西ドイツやオーストリアという国のありかたがうかがえるような本で、新興の経済大国であった日本との関わりにも触れている。

平和運動の帰趨や、冷戦末期の国際関係の機微に触れる文章を、冷戦後、日米安保体制が新局面に入りつつある時点で読んでみることは、いろいろ考える材料や足場を与えてくれるように思った。
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東アジアの王権と思想 [単行本] 渡辺 浩 (著)

http://www.amazon.co.jp/%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%8E%8B%E6%A8%A9%E3%81%A8%E6%80%9D%E6%83%B3-%E6%B8%A1%E8%BE%BA-%E6%B5%A9/dp/4130301136/ref=wl_it_dp_o_pC_S_nC?ie=UTF8&colid=2FWY8MNL30SNY&coliid=I2M1ZYFRINHUE6
江戸時代のこと考える上ですごく面白かった本だけど、タイトルなんだっけ、と忘れかけていたところ、自分のツイッター見直していたら思い出したので、こっちにメモしておく。いずれ再読熟読したい。
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中島隆博『共生のプラクティス 国家と宗教』(東大出版会)

気になった事柄をメモ。

第七章 国家のレジティマシーと儒教

ロバート・ベラー『社会変革と宗教倫理』から「市民宗教」という言葉を取り出して援用

現代中国において、儒教が国家のレジティマシーを担っている状況を思想史的に確認。

民主主義は擬制であり、国家が先行する。それだけでは国家の正統性を基礎付けられず、その文化的な支えとして宗教的なものが求められる。(p.216)

市民宗教のルーツとしてのルソー、社会契約論への注目。
国家は「市民宗教」を信じないものを追放できる・・・
(p.220)

第八章 批判儒教のために 近代中国・日本における儒教復興

清末から文化大革命、改革開放以降までの中国儒教思想をふりかえる。

和辻哲郎 服部宇之吉 井上哲次郎をとりあげて、明治以降の儒教思想の動向を整理。

帰一協会(1912年)、儒道大会(1935年)など、宗教的次元を国民倫理に持ち込む思想的な流れ(p.241) 儒教復興の流れ(p.244) を、日本における市民宗教創設への運動として把握。

批判的な儒教的実践の再確立が、来るべき「市民宗教」への需要を満たすことに希望を見出すという議論。

現代的な儒教と、仏教など、宗教的な思想運動と国家とのかかわりを、日本と中国をパラレルに(フランス現代思想もまぶしつつ)論じているあたり、学ぶべき事柄があると感じた。
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『知覚の現象学』読書ノート

返信先yanoz
これ、二巻のページ数です。書き忘れ。
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『知覚の現象学』読書ノート


「デカルトの信奉者たちは<自然的幾何学>という言い方をした・・・<自然的幾何学>もしくは<自然的判断>は、プラトン主義的意味での神話なのであって、これは、まだ措定されも思惟されもしていない或る意味を、同様にまだ措定されも思惟されもしていない諸標識のなかへ包み込んでしまっていること、もしくは<含蓄させてしまっていること>を示す以外のなにものでもない。ところが、これこそ、われわれが知覚経験に立ちもどることにとよって理解しなければならぬ当のものなのである」(みすず書房 pp.80-81)

プラトン主義的意味での神話、とここで訳されているのは、 des mythes, au sens platonicien

なぜ、プラトン的でなく、プラトン主義的と訳されたのかわからない。ほかの翻訳がどう訳しているかも知らない。

おそらく、プラトンの著作におけるミュトス(ロゴスとは別の位相にある、たとえとしての物語。死後の世界の話とか洞窟の比喩とか)のことが言いたいのだと思う。

プラトンを読む上で、ミュトスをどう捉えるのか、それは大事なところで、ミュトスの読み方についてメルロ・ポンティの積極的見解が示されている所が、見逃せない。

哲学書や哲学史におけるミュトス的なものの位置。
あるいは、ミュトスの読み方の系譜。

ドゥルーズも『差異と反復』で、プラトンのミュトスに触れていて、そのことも気になっている。
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『差異と反復』読書ノート

「この(社会的な)多様体は、能力としての(・・・)〔社交性〕を規定し、またそればかりでなく、社会性の超越的な対象をも規定する。この超越的な対象は、社会的な多様体が具現される場としての現実的なもろもろの社会のなかでは体験されないが、社会の激変というエレメントにおいては体験されなければならず、またそこにおいて体験されることしか可能でないといった対象である ( それは、要するに、いつでも古い秩序の残滓と新しい秩序の初穂を通じて再発見される自由のことである ) 。」(『差異と反復』河出文庫 下巻 p.74)

上記引用、共通感覚批判に続いて、理念は諸能力を駆け回る、という議論の例として、言語論についで現れる一節。

「初穂」の原語は premices 辞書を見ると、神にささげる初穂というニュアンスがある。意訳というわけではなくて、辞書通りの訳。

再発見は、おそらく recouverte の訳。

字義通りに読むと、「再び覆う」「覆いつくされる」という意味になる。
単に redecouverte と見誤ったということだろうか・・・?

ドゥルーズが「自由」ということを積極的に語っていることに注目したい。

この少し前の、レーニンと理念、という話とも関わるところだと思う(p.66)。
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『つながりの作法』読書メモ

「ルールを掲げながら、「でも、外れても大丈夫」という暗黙のルールも同時に持つことは、ルールというものにたいしての新しい向き合い方を与えるだろう。」(181頁)

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『つながりの作法』読書メモ

「構成的体制は一方的に個人を象るだけの不変の体制ではなく、個人の探索的な日常実践によって常に更新され続ける存在でもある」(108-109頁)
「個人間の差異を見逃し、コミュニティ全体が共有する構成的体制を絶対視する「本質主義」に陥らず、かといって、全体で共有する構成的体制を虚構とみなして差異のみに敏感になっていく「虚無主義」にも陥らないで、違いを認めたままつながるためには(・・・)「当事者研究」そのものが、「構成的体制と日常実践の相互循環」である必要がある」(110頁)

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読書メモ『記憶を書きかえる』

「私は常々、デカルトとウィトゲンシュタインの発言の類似性を指摘して、人々を困惑させては喜んでいる。このような類似性が存在する理由は(・・・)魂が、西洋における人類と自然におけるその位置づけについての見解の中に、生き続けてきたためだろう」(268頁)
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読書メモ『記憶を書きかえる』

原著タイトルは Rewriting the soul (魂を書きかえる)

「家族の価値というものが危機に瀕しているとき、魂に関する明晰な議論ではなく、魂の科学的な代用品としての、記憶に関する論議が行われるようになった」(267頁)

つまり、「魂とは何か、記憶である」というのがまさに、魂の書きかえ、なんですよね。

『記憶を書きかえる』という邦題になっていること自体 Rewriting the soul だっていう。
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読書メモ『記憶を書きかえる』

ニーチェはリボを読んでいた。

「『道徳系譜学』の中で、リボの『記憶の病』のかなりの部分をほぼ逐語的に使っているから」(245頁)
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読書メモ『記憶を書きかえる』

「鉄道は事故という観念に、現代的な意味を負わせた」(229頁)

「アクシデントという単語は、それまでは、偶然に起こったか、何の原因もない出来事という意味で使われていた(・・・)現在使われるような(・・・)突然起こる(・・・)悪いもの」という意味は「鉄道事故に由来する」(~230頁)
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読書メモ『記憶を書きかえる』

イアン・ハッキング著、北沢格訳、早川書房、1998年刊行

「私は分析はするが、脱構築する意図はまったくない」(邦訳83頁)

「脱構築という言葉は、脱構築されつつあるものに対する皮肉や嘲笑、そして尊敬の欠如という内容を含んでいる」(同)だから、だそうです。
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『差異と反復』読書ノート

訳者の財津さんがブログで第二章(冒頭ほかいくつかの箇所)の改訳を試みている。

↓ここで示された訳文は、文庫版上197頁の改訳
http://zaitsu.blog137.fc2.com/blog-entry-84.html
「現前する〔=呈示される〕それぞれのもの〔…〕は互いに完全に独立している」

ここ、文庫では「提示〔現前化〕される個々のものはそれぞれ完全に独立している」となっている。

それが、次に示された再度の改訳でこうなった。
http://zaitsu.blog137.fc2.com/blog-entry-94.html
「それぞれの現前化〔たとえば現前するそれぞれの音〕は互いに完全に独立している」

原書(p.96)では、une parfaite independance de chaque presentation となっているので、こちらの方が直訳に近い。

ここで、提示、現前化、するのは、cas (事例) element (要素・エレメント)なので、それを指して「もの」と呼ぶのは、ちょっと誤解を招く気がする。

時計の音がする、その音のひとつひとつを、「もの」と言うだろうか?言うとしても、ちょっとそれはものものしすぎる。

というか、知覚の現前という出来事というか現象を指した論述になっているのが重要なところだと思う。

presentation を物質的な世界として考えてしまうのは、それは、対象において考察してしまっているのであり、それは、反復という理念の手前に留まって考えていることになる(文庫上巻200頁)。

だから、このpresentation を、物質の領域での反復、と読んでしまってはいけない。
http://zaitsu.blog137.fc2.com/blog-entry-95.html

ところが、この文が、次の改訳では、また元に戻されている(ただのこぴぺの手違いかもしれないけど)。
http://zaitsu.blog137.fc2.com/blog-entry-105.html

これだけで、絶望的な気分にさせるのに十分という感じなんだけど…

このあとが注釈の泥沼で、文庫版や原著への参照が消えて、ハードカバー版の頁数だけになってしまうというあたり、なんだか気が滅入ってくる展開だよなぁ。
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『差異と反復』読書ノート

下巻 50-51頁
「構造的かつ発生的な諸条件のなかには、理念によってすでに満たされていたり、まだ満たされていなかったり~」

原文では受身じゃないのに、なんで受身で訳してるんだろう。
(elle satisfasse deja a certaines conditions... p.238)

わかりにくくなっている(というか、余計なニュアンスが生じている)気がするが。

理念(イデア)が、構造的発生的条件を、満たしたり、満たさなかったりする。つまり、まだ十分な解の諸事例が与えられていないような理念がある、ということですね。
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